7 湯の峰温泉
暫く部屋で休んだ後
徹子は浴衣に着替えた
窓の外は少しずつ薄暗くなっている
夕食まではまだ時間があった
先に温泉へ入ろう
そう思い 部屋を出る
廊下には畳の感触が残っていた
歩くたびに足裏が心地よい
館内は静かだった
大浴場の暖簾をくぐる
脱衣所には誰もいない
どうやら一番風呂に近いらしい
服を脱ぎ 浴場へ入る
ふわりと温泉の香りが広がった
硫黄の匂い
十津川温泉でも感じたが
ここにはもう少し柔らかい
湯気がゆっくり立ち上がっている
湯船の中には白い湯の華が浮かんでいた
徹子は手で湯
熱い
だが嫌な熱さではない
身体を洗い ゆっくり湯船へ足をいれる
「あつっ……」
思わず声が出る
それでも肩まで沈む
じわりと身体の芯まで熱が伝わる
長時間バスに揺られた疲れが
少しずつ溶けていくようだった
目を閉じる
何も聞こえない
聞こえるのは湯の流れる音だけ
仕事の電話も無い
メールもない
会議もない
クレーム対応もない
久し振りだった
こんなに何も考えない時間は
暫く湯に浸かった後
露天風呂へ出る
山の空気が少し冷たい
夕暮の空が見えた
薄い青空から群青色へ変わり始めている
湯気の向こうに山影が見える
徹子はぼんやり空を見上げた
「気持ちええなあ……」
誰もいない
だから独り言も自然に出る
大阪では絶対に味わえない時間だった
温泉から上がる頃には
身体がぽかぽかになっていた
部屋へ戻ると 夕食の案内があった
食事処へ向かう
畳敷きの広間だった
窓の外には暗くなった山が見える
席にはすでに料理が並んでいた
徹子は思わず目を見開く
想像以上だった
鮎の塩焼き
地元野菜の小鉢
温泉卵
しゃぶしゃぶ
季節の煮物
ひとつひとつが丁寧だった
派手さではない
手間がかかっているのが分かる
「たくさんありますね」
思わず笑う
その時だった
「足りなかったら言ってくださいね」
声をかけてくれたのは女将だった
徹子も笑顔で頭を下げる
「これで足りない人はおらんと思います」
女将は楽しそうに笑った
「皆さんそう言われるんですよ」
会話はそれだけだった
だが不思議と心地良かった
暫くして女将が温泉卵を持って来てくれる
「湯の峰へ来たら やっぱりこれですね」
徹子は卵を割る
湯気が立つ
一口食べる
優しい味だった
旅館の料理は豪華だった
だが 徹子の心に残ったのは
むしろその優しさだった
暫く食事を続ける
女将が近くを通った時
ふと聞いてみた
「ここって
ずっと前からされてるんですか?」
女将は少し考えてから答えた
「私が嫁いできた頃には
もうありましたからねえ」
そう言って笑う
「都会から来られる方も多いんですか?」
「多いですよ
何回も来てくださる方もいます」
「そうなんですね」
「静かですからね」
女将っは窓の外を見た
「何もないですけど」
徹子もつられて外を見る
暗い山
温泉街の灯り
川の音
確かに派手な観光地ではない
だが……
何もない訳ではない
むしろ今の自分には
こういう場所の方が必要だった
そう思えた
食事のお茶を飲みながら
徹子は静かに息を吐いた
旅に出てよかった
今日二度目のその言葉が
自然と胸の中に浮かんでいた
夕食を終えた頃には
外はすっかり暗くなっていた
部屋へ戻った徹子は窓を開けてみる
夜風が入って来る
涼しい
大阪ならまだエアコンが必要な時期だ
だが湯の峰温泉の夜は違った
山の空気はひんやりしている
窓の外では川の音が聞こえている
静かだった
テレビをつける気にもならない
スマートフォンを見る気にもならない
折角なので少し歩いてみよう
そう思った
浴衣のうえに羽織を着る
財布とスマートフォンだけ持って部屋をでた
旅館の玄関をでる
温泉街は昼間とはまるで違う顔を
見せていた
街灯は少ない
だが暗くはない
旅館の灯りが柔らかく道を照らしている
川沿いを歩く
湯気が見える
温泉の香りも漂っている
昼間より濃く感じた
硫黄の香り
嫌な匂いではない
むしろ温泉地へ来た
実感がする
徹子はゆっくり歩いた
急ぐ理由がない
それが新鮮だった
仕事の日なら時計ばかり見ている
電車の時刻
集合時間
会議開始
締切
今日は何もない
ただ歩くだけだ
温泉街には何人か観光客の姿もあった
浴衣姿の夫婦
写真を撮る外国人旅行者
静かに散歩する年配の男性
皆ゆっくり歩いている
誰も急いでいない
それだけで安心する
川沿いのベンチへ座ってみる
湯気が夜空へ消えていく
見上げると星が見えた
大阪ではなかなか見られない数だった
徹子はしばらく空を眺める
そして自然と 元彼のことを思い出していた
最後に会ったのは何時だっただろう
連絡が減った
勤務が合わなくなった
最初は寂しかった
怒りもあった
だが今は少し違う
この旅へ出てから考える時間が増えた
嫌いになった訳ではなかった
向こうも同じだったと思う
ただ それぞれ違う方向へ歩いてしまった
それだけだったかもしれない
徹子は小さく息を吐く
不思議だった
大阪では考えたくなかったことが
ここは自然に考えられる
山の中だからだろうか
温泉のせいだろうか
それとも長いバス旅のせいだろうか
答えは分からない
ただ 少しだけ気持ちが軽くなっていた
暫くすると 肌寒さを感じ始めた
時計を見る
もう九時を回っている
徹子は立ち上がった
旅館へ戻る
玄関では女将が片づけをしていた
「散歩ですか?」
「はい 静かで気持ち良かったです」
「夜は良いでしょう」
女将は嬉しそうに笑った
「何もないですけどね」
徹子も笑う
今日二回目の言葉だった
だが今なら分かる
ここには何もない訳ではない
静かな時間がある
それが一番の贅沢なのかもしれない
部屋へ戻る
布団はすでに敷かれていた
畳みの香りがする
窓の外では川の音が続いている
徹子はスマートフォンを手に取った
通知はほとんどない
仕事の連絡も来ていない
元彼からもきていない
だが今日は気にならなかった
そのまま枕元へ置く
部屋の灯りを消した
暗闇の中で若の音だけが聞こえる
目を閉じる
大和八木
五條
五新線
天辻峠
谷瀬の吊り橋
十津川温泉
今日一日だけで 沢山の景色を見た
気付けば意識が遠のいていく
久し振りだった
何も考えず眠れる夜は
湯の峰温泉の静かな夜は更けていった
徹子が目を覚ました時
部屋の中は柔らかな朝の光に包まれていた
暫く布団の上で天井を見つめる
何処にいるのだったか
一瞬だけわからなくなる
だが窓の外から聞こえてくる川の音で
思い出した
湯の峰温泉だった
徹子はゆっくり起き上がる
時計を見る
まだ朝六時過ぎ
仕事の日なら目覚ましに起こされる時間だ
だが今日は自然に目が覚めた
窓を開ける
ひんやりした空気が部屋へ流れ込んできた
思わず深呼吸する
山の匂いがした
湿った土
木々
川
都会にはない匂いだった
朝霧が光っていた
遠くの山には薄い霧がかかっている
温泉街はまだ静かだった
時折 自動車が一台通る程度
聞こえるのは川の音と鳥の声だけだった
徹子はしばらくその景色を眺めていた
何もしない時間
だが不思議と退屈ではない
昨日まで張り詰めていた何かが
少しずつほどけていくようだった
朝風呂へ入る
夜とは違う
窓から差し込む朝日が湯気を照らしていた
湯の花が静かに揺れている
徹子は湯船に身を沈める
熱い
だが心地良い
身体の奥まで温まる
昨日の長距離バスの疲れも
すっかり消えていた
温泉から上がると朝食の時間だった
食事処へ向かう
窓際の席に案内される
朝の光が差し込んでいた
並べられた料理を見て
徹子は少し嬉しくなった
温泉湯豆腐
温泉卵
温泉粥
焼き魚
小鉢
漬物
派手ではない
だが身体が喜びそうな料理だった
一口食べる
優しい
そんな言葉が真っ先に浮かんだ
仕事の日ならコンビニのおにぎりで
済ませる事も多い
だが今日は違う
ゆっくり噛む
ゆっくり味わう
その時間が贅沢だった
食後にお茶を飲んでいると
女将が声をかけて来た
「よく眠れましたか?」
「はい びっくりするくらい」
徹子が答えると
女将は嬉しそうに笑った
「川の音が子守歌になるんですよ」
確かにそうだった
昨夜は気づいたら眠っていた
「今日は新宮へ行くんです」
徹子が言う
「そうなんですね」
女将は頷いた
「速玉さんですね」
速玉さん
熊野速玉大社の事だろう
地元の人らしい呼び方だった
「新宮は思っているより都会ですね」
女将は笑う
「皆さんびっくりされます」
徹子も笑った
実は自分も少しそう思っていた
紀伊半島の南端
山の奥
そんな印象ばかりだったからだ
「また来てくださいね」
会計を済ませる時 女将はそう言った
営業トークではなかった
本当にそう思ってくれているのが分かる
徹子は自然に答えていた
「はい また来ます」
宿を出る
朝の温泉街を歩く
昨日見た景色が 朝の光の中では
また違って見えた
湯気
川
旅館
山
静かな時間
一泊だけだった
だが不思議と名残惜しかった
バス停へ向かう
黒いリックを背負い直す
みゃくみゃくのキーホルダーが揺れる
やがてバスがやって来る
昨夜のバスとは違う熊野御坊南海バスだった
扉が開く
徹子は振り返る
湯の峰温泉の温泉街が見えた
小さな集落
静かな山
昨日まで知らなかった場所
だが今は少しだけ特別な場所になっていた
徹子は小さく頭を下げる
そしてバスへ乗り込んだ
次の目的地は新宮だった




