6 十津川・熊野
十津川村役場を過ぎても
バスはひたすら南へ走り続けた
山は終わらない
川も終わらない
道路だけが谷に沿って伸びている
徹子は窓の外をみていた
気付けば 少しうとうとしていたらしい
大きく揺れた訳ではない
ただ心地よいエンジン音と
単調な山の景色が眠気を誘ったのだ
ふと目を開く
窓の外におおきな文字
十津川温泉へようこそ
徹子は姿勢を正した
目的地ではない
だが今日最後の休憩地だった
バスは温泉街へ入っていく
山に囲まれた小さな集落
旅館
商店
住宅
思っていたより人の気配がある
車内アナウンスが流れる
「十津川温泉で二十分ほど休憩いたします」
乗客達が少し動き始めた
バスは停車する
徹子も外へ出る
その瞬間だった
ふわりと匂いがした
硫黄だった
温泉独特の香り
大阪ではまず嗅ぐことのない匂い
思わず深呼吸してしまう
温泉地に来た
そんな実感が一気に沸いた
目の前には足湯があった
湯気が立ち上がっている
数人の観光客が腰かけていた
徹子も近づいてみる
湯は透明だった
だが温かいを通り越して暑そうにも見える
源泉温度はかなり高いらしい
足先を入れている観光客が「熱っ」と
笑っていた
徹子もつられて少し笑う
温泉街は静かだった
大型観光地の賑わいではない
だが落ち着く
どこか懐かしい空気があった
その時 運転手が乗客達へ
声をかけているのが見えた
何かを配っている
徹子にも運転手が持ってきた
受け取ったのは一枚のカードだった
八木新宮線完全乗車記念証
奈良交通株式会社
そう印刷されていた
まだ 新宮にも着いていないのに
だが長距離路線に乗っているという
実感が湧いて 少し嬉しかった
徹子は記念証を眺める
思わずリックのポケットへ大事にしまった
時計を見る午後三時半
大和八木をでてかなり経つ
それなのに……
徹子は地図を開いた
思わず苦笑いする
まだ 奈良県だった
感覚的には県境を二つ三つ越えていても
可笑しくない
だが まだ奈良県内
十津川村の大きさを改めて思い知る
ふと道路を見る
小さなバスが停が停まっていた
コミュニティバスらしい
行き先は表示には十津川温泉の文字
地域の人々の足なのだろう
観光地である前に生活の場所
その事がよくわかる
やがて発車時刻が近づく
徹子はバスへ戻った
窓側の席に座る
発車すると温泉街は少しづつ後ろへ遠ざかる
道路は再び山の中へ伸びていた
暫くすると不思議な景色が見えて来た
古い道路
新しい道路
二つが並んでいる
山側をうねうねと進む旧道
その横を橋とトンネルで真っ直ぐ進む新道
まるで時代が並んでいるようだった
人は少しずつ山を越えやすくしてきた
それでも この土地はまだ山深い
窓の外には崖
谷
急流
そして果てしなく続く緑
徹子は窓に額を寄せた
この旅に出るまで知らなかった景色だった
そしてその景色はまだ続いていた
県境はもう近い
十津川温泉を出発すると
バスは再び山の中へ入っていった
車内は静かだった
休憩で体を伸ばせたせいか
乗客達も何処か落ち着いている
窓の外には深い山々
崖沿いの道路
そして川
徹子はその川を眺めていた
旅行前に少し調べていたことを思い出す
天川
十津川
熊野川
実は一つの流れなのだという
流れる場所によって名前が変わる
同じ川なのに
不思議な話だと思った
バスはゆっくり進む
道路の横には古い国道が見える
その上を新しい橋が跨いでいる
山肌には工事中のトンネル
巨大な橋脚
今もなお
この地域の交通は改良され続けている
だが それでも険しい
窓の外には崖が続く
もし道路が無かったら
人は簡単には行き来出来ないだろう
そんな場所だった
やがて 車内アナウンスが流れる
県境は近い
徹子は少し身を乗り出した
特別なゲートがあるわけではない
大きな建物も無い
だが 気づけば奈良県を離れていた
和歌山県
地図では簡単に見える
だが 実際に越えてみると
その距離の長さが分かる
大和八木を出て何時間も経っている
それでもなお山の中だった
徹子は少し笑った
「ほんまに遠かったな……」
窓の外の川が大きくなる
水量も増えている
熊野川
その名前を思い浮かべる
歴史の授業で聞いた事がある
熊野詣
上皇
巡礼
世界遺産
そんな言葉が頭をよぎる
だが今 目の前にあるのは
ただ美しい川だった
静かだ
そしてどこか 神聖だった
暫く進むと道路沿いの風景が少し
変わった
観光案内板が増えて来る
駐車場
案内所
外国語表記
そして リックを背負った外国人観光客の姿
車内にも少し緊張感が流れる
目的地が近づいている
そんな空気だった
やがてバスは大きな鳥居の近くを通過する
熊野本宮大社前
徹子は窓へ顔を近づけた
観光客が多い
外国人の姿も目立つ
世界遺産の力なのだろう
山の中とは思えないほど人がいた
だが不思議だった
騒がしくない
皆どこか静かに歩いている
信仰の場所だからかもしれない
徹子は思う
今日はここへは寄らない
だが明日 新宮へ向かう前に少し
見てみたい気もした
バスは本宮大社前を過ぎる
すると道路の雰囲気がまた変わった
山が近づく
谷が狭くなる
温泉地特有の空気が漂い始める
ふと窓の外を見る
白い湯気が立ち上がっていた
温泉だ
何処からともなく
硫黄の香りが流れてくる気がする
道路沿いには旅館
民宿
小さな商店
派手ではない
だが長い歴史を感じる建物が並んでいた
徹子は窓の外を見続ける
川沿いの集落
山
湯気
夕方の柔らかい光
どこか懐かしい
初めて来たはずなのに
その景色をみた瞬間
不思議な安心感が胸の中に広がった
やがてバスはゆっくり速度を落とし始める
今夜の宿がある
湯の峰温泉だった
バスが停車すると
徹子はゆっくり立ち上がった
長かった
大和八木を出てから六時間近く
途中で何度も景色が変わった
平野
川
五新線の遺構
天辻峠
谷瀬の吊り橋
十津川温泉
そして今
ようやく今夜の宿がある湯の峰温泉へ
辿り着いた
車外へ出る
最初に感じたのは静けさだった
観光地特有の賑わいがない
大型ホテルもない
土産物店が並ぶわけでもない
山に囲まれた小さな温泉街
川の流れる音だけが聞こえていた
夕方の光が谷間へ差し込んでいる
どこか懐かしい
初めて来た場所なのに
そんな気持ちになる
徹子はスマートフォンで
予約した宿の地図を確認した
歩いて数分
温泉街は小さい
迷うことはなさそうだった
川沿いの道を歩く 湯気が見える
温泉の香りもする 硫黄の匂い
強すぎない むしろ落ち着く
道路脇では数人の観光客が
写真を撮っていた
外国人らしい夫婦もいる
だが全体的には静かだった
急いでいる人がいない
それが心地良かった
暫く歩くと 宿の看板が見えた
大きくない
派手でもない
昔からここにあるのだろう
そんな佇まいだった
引き戸を開ける
「こんにちはー」
中から明るい声が聞こえた
女将だった
五十代くらいだろうか
柔らかな笑顔だった
徹子が名前を告げると
「ああ 鹿島さんですね
おまちしてました」
と嬉しそうに言った
まるで親戚の家へ来たような歓迎だった
チエックインの手続きはあっという間に
終わる
館内の説明を受ける
温泉
食事時間
朝食
家族風呂
どれも丁寧だった
女将は最後に言った
「お疲れだったでしょう
まずはゆっくりしてくださいね」
その言葉が不思議と胸に残った
仕事では毎日
『お疲れ様です』
と言っている
だが今聞いた言葉は少し違った
本当に労ってくれているように感じた
案内された部屋に入る
畳みの香りがした
思わず深呼吸する
部屋は広すぎない
だが落ち着く
窓際へ歩く
カーテンを開ける
目の前には湯の峰の風景が広がっていた
山
川
夕方の柔らかな光
遠くで犬の鳴き声が聞こえる
都会では聞かない音だった
徹子は窓際へ腰を下ろした
静かだった
本当に静かだった
スマートフォンも鳴らない
仕事の連絡もない
誰からも呼ばれない
ただ風景だけがある
その時 ふと思った
……来てよかった
大阪を出た時には分からなかった
六時間のバスに乗っている時も
分からなかった
だが今なら少し分かる
自分はこの静けさが欲しかったのだ
窓の外では
夕暮が少しずつ深まっていった




