2 近鉄線
翌朝
徹子は目覚ましが鳴る少し前に目が覚めた
薄暗い部屋の中で天井をぼんやりと見つめる
静かだった
だが耳を澄ますと
一階のコンビニへ納品する台車の音が
聞こえてくる
朝五時半
大阪の商店街は もう動き始めていた
徹子はゆっくり身体を起こす
少し眠い
だが 不思議と体は軽かった
今日は仕事ではない
その事だけで 少し呼吸が楽になる
窓を開ける
外はまだ薄暗い
夏の湿気が残っている
だが 風だけは少しだけは違った
秋が近づいて来る時の風だった
徹子は白いTシャツへ着替え
ジーンズを履く
洗面台で髪をまとめ
緑色のキャップを被った
鏡を見る
旅行へ行く顔というより
遠くへ逃げる顔に少し近い気がした
徹子は苦笑いする
「……まあ ええか」
小さく呟く
黒いリユックを背負う
思っていたより重くない
部屋を見回す
狭いワンルーム
小さな冷蔵庫
散らかってはいないが
生活感だけはある部屋
五年間くらした大阪の部屋だった
電気を消し 玄関を出る
階段を下りる途中
コンビニの揚げ物の匂いが少し漂って来た
自動ドアが開く
朝勤の店員が
眠そうな顔で品出しをしている
徹子は温かい缶コーヒーと
おにぎりを二つ買った
「ありがとうございましたー」
機械的な声を背中を聞きながら
商店街へ出る
朝の商店街は 夜と少し違う
シャッターを開ける音
水撒き
パンの匂い
自転車で通り過ぎる学生
遠くから聞こえる電車の走行音
徹子は歩きながら 空を見上げた
高い
雲が薄い
今日は晴れるらしい
商店街を抜け 駅へ向かう
キャリーバックを引く旅行者が何人か見えた
だが 自分ほど長いバス旅をする人は
多分そんなに居ない
そう思うと少し可笑しくなる
徹子はスマートフォンを取り出した
保存してある行程表を見る
近鉄で大和八木
そこから八木新宮線
六時間を超える 日本一長い路線バス
改めて見ると やはり少しおかしい
だが今は その可笑しさに惹かれていた
普通なら
新幹線や飛行機で早く着く場所を選ぶ
それなのに今回は
態々時間のかかる道を選んでいる
徹子は駅前の信号で立止まる
赤信号
朝の列車
コンビニの明かり
ビルの隙間から差し込む朝日
いつもの大阪だった
その景色を見ながら 徹子は小さく息を吐く
そして少しだけ思った
もしかすると自分は
遠くへ行きたいのではなく
ゆっくり離れたかったのかもしれないと
朝の通勤ラッシュが始まりかけていた
スーツ姿の会社員 学生
キャリーケースを引く旅行客
徹子は黒いリックを背負ったまま
人の流れへ混ざっていく
改札を抜ける
電子音 アナウンス ブレーキ音
毎日聞いている駅の音だった
それなのに今日は
少しだけ他人事みたいに聞こえる
ホームへ降りると
朝の空気はまだ少し湿っていた
徹子は缶コーヒーを開け小さく息を吐く
遠くで電車が入線して来る
赤色の車体 見慣れた通勤電車
だが今日は その先に長い旅が待っている
徹子は窓際の席へ座った
発車
小さく揺れて電車が動き出す
大阪の街並みが流れていく
ビル 高架道路 マンション
何度も見えてきた景色だった
途中乗り換える
今日はいつもと違う方向へ進む
電車が東へ進むにつれ
少しずつ景色が変わっていく
住宅街の間を抜けていく
空が広くなる 古い家が増える
遠くに山が見える だんだん近づく
徹子は窓へ額を軽く寄せた
旅行ツアー部門へ異動してから
観光パンフレットの写真ばかり見て来た
だが実際の旅は
こういう途中の景色の方が印象に残る
駅を通過する度に人が降りていく
逆に通勤客は減っていく
大阪の空気が
少しずつ後ろへ遠ざかっていく感じがした
徹子はスマートフォンを取り出す
保存していた八木新宮線の時刻を確認する
大和八木発 新宮行
長い
改めて見ても長い
乗車時間だけで六時間を超えている
普通なら新幹線で遠くへ行く時間だった
それなのに今日は
その何倍もゆっくり進む旅を選んでいる
徹子は少し笑う
「ほんま よう行こうと思ったな……」
小さく呟く
だが不思議と後悔はなかった
むしろ今は 早く着く事より
時間をかけて離れていく感覚の方が
欲しかった
電車が奈良県内に入る
窓の外に 低い山並みが続いている
九月の終わりかけた夏空 雲が高い
徹子は静かに目を閉じる
今日 自分は何処まで行けるのだろう
そんな事をぼんやり考えていた
電車が大和八木へ近づく頃には
車内の空気も少し変わっていた
通勤客は減り 代わりに観光客らしい姿が
増えている
リック 帽子 キャリーケース
窓の外には奈良盆地が広がっていた
田んぼの緑は
少しだけ色が薄くなり始めている
夏が終わりかけていた
車内アナウンスが流れている
間もなく 大和八木に着く
徹子は小さく姿勢を正した
黒いリックを抱え直す
みゃくみゃくのキーホルダーは揺れた
電車がゆっくり速度を落とす
ホームが見えてくる
大和八木駅
奈良県中心部の交通の要所
思っていたより人が多い
徹子はホームへ降り立つ
まだ朝がというのに 空気は少し暑かった
だが大阪より空が広い
駅構内には
通勤客と観光客が混ざっている
スーツ姿の会社員
高校生 年配夫婦 外国人観光客
徹子は少し立ち止まり 周囲を見回した
ここから先 自分は生活路線へ乗る
その感覚が少しだけ嬉しかった
改札を抜ける
タクシー 送迎車 路線バス
空は明るい 遠くには山並み
徹子はスマートフォンで時刻を確認する
まだ少し余裕があった
だが気持ちは もう完全に旅へ入っていた
駅前にはコンビニ店も見える
それでも大阪とは少し空気が違う
待ちの速度が 少しだけゆっくりだった
徹子はロータリーの先を見る
あのバスへ乗れば
自分は六時間以上かけて
紀伊半島を南に抜けていく
十津川 湯の峰 新宮
まだ地図の中にしかない場所
だが今日は その中へ本当に入っていく
徹子は小さく深呼吸した
度が ようやく始まろうとしていた




