1 大阪
九月の大阪は まだ夏が残っていた
朝七時前だと言うのに商店街の
アスファルトにはもう熱気がこもっている
一階のコンビニに搬入するトラックの音で
鹿島徹子は目を覚ました
薄いカーテン越しに
白っぽい朝の光が入っている
ワンルームの狭い部屋
壁際には黒いリックサック
ファスナーには 赤と青のみゃくみゃくの
キーホルダーが揺れている
午前六時四十分
今日は休みだった
だが 頭の中はあまり休めていない
徹子は小さく息を吐き
ベットから起き上がった
商店街のシャッターが
次々に開いていく音がきこえる
惣菜屋
八百屋
古い喫茶店
二十三歳になってから
こういう音で朝を感じることが増えた
高校を卒業して大阪へ出て来て
もう五年になる
最初の二年間は駅員と車掌勤務だった
早朝のホーム
終電後の静けさ
遅延対応
酔客
新人の頃は毎日必死だった
三年目から旅行ツアー部門へ異動した
今はパンフレットの作成や団体調整
宿泊先との連絡
窓口対応が主な仕事になっている
観光地の写真を見る事は増えた
だが自分自身が旅へ出る事は減った
徹子はキッチン横の小さな冷蔵庫から
麦茶を取り出す
冷たい
少しだけ身体が落ち着く
テーブルの上には
昨日まで作業していた
秋の旅行企画資料が残っていた
天の橋立 出雲大社 宮島 倉敷
何度も扱った場所ばかりだ
だが 紀伊半島だけは違った
十津川 湯の峰温泉 新宮
名前は知っている
パンフレットでも見た
それなのに 自分はまだ行った事がない
大阪から決して遠くないはずなのに
どこか空白地帯みたいに感じていた
徹子は窓を開ける
少し湿った風が入って来る
夏が終わりかけている匂いだった
スマートフォンの画面に視線を落とす
連絡欄の一番上には
もう何日も動いていない画面が残っていた
元々は職場の先輩だった
勤務場所が変わってから
少しずつ連絡が減った
忙しい
時間が合わない
また今度
そんな言葉を繰り返しているうちに
自然と合わなくなっていた
大喧嘩したわけでもない
嫌いになったわけでもない
ただ お互いに生活が少しずつ遠くへ行った
徹子はスマートフォンを伏せた
その代わり黒いリックを引き寄せる
今日から 一週間の休み
大和八木から新宮へ向かう
日本一長い路線バス
六時間を超える旅
自分でもどうしてそこへ行きたくなったのか
上手く説明出来なかった
ただ今は 知らない山の中を
長い時間かけて走るバスへのりたかった
徹子は顔を洗い 白いTシャツへ着替えた
紺色の長い上着を羽織り 鏡を見る
少し眠そうな顔だった
緑色のキャップを被る
旅行というより
遠出する時のいつもの格好だった
黒いリックを背負い 一階へ降りる
コンビニの自動ドアが開く
冷房がキツイ
「いらっしゃいませー」
外国人のアルバイトの店員が
少し眠そうな声を出した
徹子はお茶とおにぎり
それから小さなガムをかごに入れる
長距離バスに乗る時 ガムは必需品だった
会計を済ませて外へ出る
商店街はもう半分くらい店が開いていた
惣菜屋から揚げ物の匂いが流れて来る
古い喫茶店では
常連らしい老人たちが新聞を広げていた
自転車が横を通りすぎる
徹子は歩きながら
ぼんやり空を見上げてた
高い
少しだけ秋の空になっている
だが 空気はまだ夏だった
今日の大阪は三十四度まで上がるらしい
名前は知っているのに 実感がない
まるで地図の奥側に
残された場所みたいだった
徹子はスマートフォンを取り出す
赤いケース 画面が光る
保存していた八木新宮線の時刻表を開く
大和八木から新宮
約六時間
バス停百六十八カ所
日本一長い路線バス
改めて見ると 少し笑ってしまう
「長すぎるやろ」
小さく呟く
だが 不思議と嫌ではなかった
むしろ今は
それくらい遠い場所に行きたかった
ずっと同じ場所で
同じような仕事を続けていると
自分の感覚迄毎日同じになる気がする
だから今回は知らない景色の中へ
行きたかった
電車ではなく 時間をかけて進むバスで
山を越えていく道で
徹子はスマートフォンをポケットへ戻した
商店街の向こうから
電車の通過音が聞こえて来る
いつも聞いている音だった
夜十時を過ぎると
商店街も少し静かになった
昼間は暑かった空気も
窓を開けると少しだけ柔らかい
徹子は床へ黒いリックを置き
中身を確認していた
着替え
充電器
折りたたみ傘
モバイルバッテリー
財布
時刻表を印刷した紙
そして 小さなメモ帳
必要最低限しか入れていないのに
背負うとそれなりに重い
六時間以上バスへ乗るのだから
荷物は少ない方が良い
徹子はリックサックの
横ポケットへペットボトルを差し込む
みゃくみゃくのキーホルダーが
小さく揺れた
ワンルームの狭い部屋には
テレビの音だけが流れている
特に見ているわけではない
ただ静かなのが嫌で点けていた
テーブルの上には
コンビニで買ったサラダとおにぎり
半分ほど食べたっところで
徹子の箸を止めた
スマートフォンの通知が
光った気がしたからだ
無意識に画面を見る 何も来ていない
徹子は小さく苦笑いした
もう何日も あの人から連絡はきていない
最初は ちゃんと付き合っていたと思う
元々は職場の先輩だった
駅勤務時代
遅延対応で泣きそうになっていた徹子を
助けてくれたのが最初だった
車掌時代も常務区が同じ時はよく話した
仕事終わりに
駅前でラーメンを食べたりもした
だが 配属が変わった
徹子は旅行ツアー部門へ
先輩は別路線の乗務へ
勤務時間が合わなくなった
早番
泊り勤務
休日変更
最初は
「また今度ご飯行こう」
と連絡していた
だが また今度 は少しずつ増えていった
返信が遅れる 既読だけ点く
電話するタイミングも分からなくなる
嫌いになった訳でもない
喧嘩した訳でもない
ただ お互いの生活が少しづつずれていった
最後にあったのは いつだったか
徹子はもう思い出せなかった
スマートフォンを伏せる
窓の外から
電車の通過音
大阪の夜だった
徹子はベッドへ腰を下ろす
明日の今頃 自分は何処に居るだろう
十津川
湯の峰温泉
新宮
地図では見た場所
だが まだ現実感は無い
ただ今は 遠くへ行きたかった
誰も自分を知らない山の中を
長い時間かけて走るバスに乗りたかった
徹子は照明を消した
暗くなった部屋の中で
エアコンの小さな音だけが続いていた




