第3話 後編
事件が起きたのは、二限目の休み時間だった。
廊下を歩いていたら、前から、瀬戸くんが歩いてきた。
瀬戸蒼太くん。
同じクラスの男子で、わたしの、その。
……好きな人、というか。
いや、好きって、まだはっきり決まったわけじゃなくて。
気になってる、くらいで。
ちょっと、目で追っちゃうくらいで。
つまり、それは、好きってことでは?
いや、ちがう。
ちがうはず。
わからない。
「おっ」
お姉ちゃんの声が、急に低くなった。
「あの子だ」
……え?
なんで、わかるの?
「あんた、今、歩き方がロボットになった。あと、耳が赤い」
うそ。
わたしは、あわてて自分の歩き方を直そうとして、右手と右足が同時に出た。
「ぶはっ! なにそれ!」
「うるさい! 黙って!」
小声で叫んだ。
瀬戸くんが、近づいてくる。
どうしよう。
目が合ったら、どうしよう。
挨拶、した方がいい? それとも、無視?
いや、無視はない。
でも、にっこり笑って「おはよう」って言うのも、キャラじゃない。
どうしよう、どうしよう。
「あ、橘さん」
話しかけられた。
心臓が、口から出そうになった。
「な、なに!?」
声が、裏返った。
「次の授業、ノート提出じゃなかったっけ? もう出した?」
「あ、うん、出した、と思う、たぶん!」
「よかった。ありがと」
それだけ言って、瀬戸くんは、すれちがっていった。
ありがと、って。
なにに対しての、ありがと?
ただ答えただけなのに。
その背中を見送りながら、わたしは、しばらく動けなかった。
「ふーん」
お姉ちゃんが、わたしの横で、腕を組んでいた。
「悪くない」
「……え?」
「いい子そうじゃん。目がまっすぐだし。わたし的には、七十点」
「なんで上から目線なの!」
「でも、あんた、もうちょい自然にしゃべれないの? 『たぶん!』って、なに」
「うるさいな!」
「はー。まあ、でも」
お姉ちゃんは、にやっと笑って、わたしの背中を、ばしっと叩いた。
「がんばれ。応援してやるよ」
痛い。
でも、その手は、やっぱりあったかかった。
わたしは、また胸の奥がぎゅっとなって、慌てて目をそらした。
……応援とか、いらないし。
余計なことしないでよね、ほんとに。
お昼休み。
お弁当を食べようとしたとき、気づいた。
お姉ちゃんが、いない。
さっきまで、わたしの隣にいたはずなのに。
教室を見まわす。
廊下も、のぞいてみる。
どこにも、いない。
「柚、どうしたの? 誰か探してる?」
「あ、ううん。なんでもない」
わたしは、席にもどった。
彩と、ごはんを食べる。
いつもの、昼休み。
のはずなのに。
なんか、変に静かだった。
卵焼きが、味しない。
どうして?
べつに、お姉ちゃんがいなくたって、困らない。
むしろ、せいせいする。
やっと、おとなしくなってくれた。
これで、集中して授業が受けられる。
そう、思ったのに。
「……あれ?」
口に出ていた。
「ん?」
「ううん、なんでもない」
ごはんは、ちっとも進まなかった。
午後の授業が終わっても、お姉ちゃんは、もどってこなかった。
ホームルームのあいだも、帰り道も、ずっと。
どこ行ったの?
迷子?
それとも、もう、消えちゃった?
……そんなわけ、ないよね。
だって、今日は水曜日。
まだ、夜じゃない。
家に着いた。
ドアを開けて、靴を脱ぐ。
「……ただいま」
返事は、なかった。
台所にも、リビングにも、わたしの部屋にも、いなかった。
ベッドに、どさっと倒れこむ。
天井を見る。
静かだ。
先週までは、お姉ちゃんがいない時間のほうが、ふつうだったのに。
いつから、こんなに、静かが静かじゃなくなったんだろう。
わたしは、ごろんと寝返りをうった。
そのとき。
窓の外で、何か、ごそごそ音がした。
……なに?
カーテンを開ける。
二階の窓の外に、お姉ちゃんがいた。
屋根の上に、ちょこんと座って、手を振っていた。
「やっほー」
「なんでそんなとこにいるの!」
「ここ、眺めがいいんだよね。昔、よく登ってたの、覚えてない?」
覚えてる。
小学生のころ、お姉ちゃんは、よく屋根に登って、お母さんにこっぴどく怒られていた。
怒られても、懲りなかった。
わたしは、窓を開けた。
「危ないよ、落ちたら」
「死んでるから、平気」
「ネタに使いすぎ!」
「でも、実際そうじゃん」
お姉ちゃんは、笑いながら、屋根をつたって、窓からするりと部屋に入ってきた。
ふわっと、外の風のにおいがした。
ちょっと、土のにおいもした。
「どこ行ってたの」
「ん? ちょっと用事」
「用事?」
「うん。大事な用事」
お姉ちゃんは、それ以上、何も言わなかった。
いつものふざけた顔の中に、ほんの少しだけ、別の顔が混ざっていた気がする。
気がするだけ。
わたしは、聞かなかった。
聞いたら、答えてくれる気がしなかったから。
それに、なんとなく。
聞くのが、ちょっと怖かった。
「それより、柚」
「なに」
「わたし、朝から今まで、ずっと見てたんだけどさ」
「え?」
「あんた、昼休み、ごはん食べるとき、ちらちら教室の入口見てたよね」
「見てない!」
「見てた。二十回くらい」
「うそ! そんなに!?」
「うそ。五回くらい」
「……」
「でも見てたってことだよね?」
誘導尋問だ。
卑怯だ。
わたしは、枕をつかんで、お姉ちゃんに投げつけた。
お姉ちゃんは、それを笑いながら受け止めた。
「やっぱ、さびしかったんだ」
「ちがう!」
「だから朝から出てきたんだよ。感謝しな」
「……自分の意思じゃないって言ってたじゃん」
「そうでした」
お姉ちゃんは、ぺろっと舌を出した。
その顔を見て、わたしは、ため息をついた。
つかれた。
でも、不思議と、悪い気分じゃなかった。
これが、あと何回、続くんだろう。
ふと、そんなことを考えた。
考えたくなかったから、すぐに頭を振って、追いはらった。
夜。
お母さんが帰ってきて、三人(お母さんには、二人にしか見えないけど)で、晩ごはんを食べた。
今日は、カレーだった。
お姉ちゃんは、わたしの隣で、お皿の上のカレーの匂いを、ものすごい勢いで吸いこんでいた。
それから、そっと、カレーの表面に指をのばした。
すかっ。
指は、カレーを通りぬけた。
お姉ちゃんは、すぐに指を引っこめた。
「……だめだ。これ、食べられないみたい」
小さい声だった。
お母さんのカレーなのに。
お姉ちゃんの大好きだった、お母さんのカレーなのに。
「……いいなあ」
プリンは、食べていた。
でも、お母さんの料理は、食べられない。
お母さんの前に、お姉ちゃんの分のお皿を並べてもらうことも、できない。
わたしは、こっそりテーブルの下で、お姉ちゃんの服の裾を、つまんだ。
お姉ちゃんは、一瞬だけ驚いた顔をして。
それから、ふっと笑った。
「ありがと」
「……なにが」
「別に」
お姉ちゃんは、そう言って、目をそらした。
わたしも、目をそらした。
お母さんが、不思議そうに首をかしげていた。
「どうしたの? 変な顔して」
「なんでもない!」
「なんでもないってば!」
二人同時に叫んで、お母さんは、よけい首をかしげた。
夜十一時五十分。
わたしは、布団の中で、時計を見ていた。
お姉ちゃんは、ベッドのふちに座って、足をぶらぶらさせていた。
「ねえ、お姉ちゃん」
「ん?」
「今日、学校、楽しかった?」
お姉ちゃんは、少し考えてから、にっと笑った。
「うん。まじで、楽しかった」
「……そっか」
「あんたの、あの、ロボット歩き。しばらく忘れられないわ」
「それは忘れて!」
「無理」
お姉ちゃんは、また笑った。
それから、ちょっとだけ、真面目な声で言った。
「柚。電気、消さなくていいからね」
「え?」
「消したら、眠れないんでしょ。だったら、そのままでいい。無理しなくていいよ」
わたしは、天井の明かりを見上げた。
ついたままの、白い光。
どうしてだろう。
お姉ちゃんにそう言われたら、ちょっとだけ、肩が軽くなった。
「……うん」
小さく返事をした。
時計の針が、十二時に近づく。
お姉ちゃんの輪郭が、ほんの少しだけ、にじんで見えた気がした。
目をこすると、もとにもどった。
気のせい、かな。
たぶん。
「じゃあ、また来週ね」
お姉ちゃんが言った。
来れたら来る、とは、言わなかった。
それに気づいたのは、お姉ちゃんが、いなくなってからだった。




