第2話 後編
その日、お姉ちゃんには「やりたいことリスト」があった。
自分で作ったらしい。
なぜか、わたしのノートの切れ端に、油性ペンで書いてあった。
そのペン、わたしのお気に入りなんですけど。
「いい? 読むよ」
「はいはい」
「一、柚の部屋のチェック」
「やめて」
「二、柚の黒歴史ノートの確認」
「そんなもの存在しない!」
「三、ご飯をいっぱい食べる」
「それは、まあ、うん」
「四、お母さんの顔を見る」
そこで、お姉ちゃんの声が、ちょっとだけ小さくなった。
わたしは、何も言わなかった。
お姉ちゃんも、何もなかったみたいに、すぐ続けた。
「五、柚の好きな人を、突き止める」
「お姉ちゃん!!」
「えー、だって気になるじゃん」
「先週言ったじゃん、その話はやめてって!」
「やめるって言ってないし」
「言う前に遮ったの!」
わたしは、リストを取りあげようとした。
お姉ちゃんは、ひょいっとかわして、紙を頭の上にかかげた。
身長差、十五センチ。
ずるい。
「返して!」
「やだよーん」
「小学生か!」
「十九歳です」
あ。
お姉ちゃんの顔が、一瞬だけ止まった。
それから、ふっと笑った。
「十九歳で、止まってるんだっけ、わたし」
わたしは、手を下ろした。
冗談のつもりだったんだろうけど。
なんて返せばいいのか、わからなかった。
こういうとき、どうすればいいんだろう。
笑えばいいの?
それとも、怒ればいいの?
わからない。
わからないから、結局わたしは、いつもの顔でこう言った。
「……リスト、ちゃんと書き直して。わたしの名前、勝手に使わないでよ」
「はーい」
お姉ちゃんは、素直に紙をわたしに返した。
受け取った紙の端に、小さな字で、こう書いてあった。
『十、』
あれ?
九までは、なかった。
六から九は、ぜんぶ空白で、なぜか十だけが書いてあった。
十のあとは、何も続いていない。
空欄だらけのリストを、わたしは、じっと見つめた。
「これ、十は?」
「あー、それ。まだ内緒」
「内緒?」
「最後にとっとく。メインディッシュは最後でしょ」
「ふーん……」
なんか、ごまかされた気がする。
まあ、どうせたいしたことじゃないよね。
たぶん。
夜になって、お母さんが帰ってきた。
お姉ちゃんは、今日はちょっと真剣な顔で、お母さんのそばにいた。
お皿を洗うお母さんのうしろで、じっと立っている。
お母さんの肩に、そっと手をのばして——
置こうとした、その手が。
すかっ、と空気をつかんだ。
お母さんの肩は、そこにあるのに。
お姉ちゃんの手は、まるで水の中に手を入れたみたいに、何の手ごたえもなく、通りぬけてしまった。
お姉ちゃんは、自分の手のひらを、じっと見た。
手が、ふるえていた。
それから、何もなかったみたいに手を引っこめて、わたしの方を向いて、ぺろっと舌を出した。
「あー、やっぱだめだわ。お母さんには、さわれない。試しただけ」
笑っていた。
いつもの顔。
でも、わたしには、さっきの手のふるえが、ずっと残っていた。
胸の奥が、ぎゅっとなる。
わたしは、見なかったふりをした。
そのほうが、いい気がした。
「ごちそうさま」
わたしがお茶碗を流しに持っていこうとすると、お母さんが、ふり返った。
「柚、最近、ちょっと元気になったわね」
「えっ」
「顔色がいい。水曜日は、特にそう」
どきっとした。
お母さん、何か気づいてる?
わたしは、必死に笑ってごまかした。
「そ、そうかな。きっと、新しいシャンプーのおかげ!」
「シャンプーで?」
「うん! すっごく、いい匂いなの!」
自分でも、意味不明だと思う。
お母さんは、ふふっと笑った。
「なんだか、茜みたいなこと言うわね」
お姉ちゃんが、後ろで、ぴくっと動いた。
わたしは、何も言えなかった。
お母さんは、そのまま、お皿洗いにもどった。
お姉ちゃんは、ほんの少しだけ、うつむいていた。
それから、小さい声で言った。
「……わたし、そんなこと言わないし」
あ。
それ、ちょっと嬉しいやつだ。
わたしは、気づいてしまった。
でも、言わなかった。
言ったら、お姉ちゃん、絶対に怒るから。
お風呂あがりに、タオルを頭にのせたまま部屋に戻ると、お姉ちゃんは、わたしのベッドのふちに腰かけていた。
わたしは、こっそり聞いてみた。
「ねえ。お母さんにはさわれないのに、わたしにはさわれるの、なんで?」
「知らん。わたしが聞きたいわ」
お姉ちゃんは、わたしの首にかかっていた黄色いタオルを、ひょいっと引っぱった。
「あんたと、あんたの物はいける。プリンとか、ペンとか、このタオルとか。家の冷蔵庫もいけた」
「えっ、じゃあ、お母さんのお茶碗は?」
「……さあ。やってないから、わかんない」
お姉ちゃんは、タオルを、ぱさっと、わたしの頭にかぶせた。
「てか、選り好みしすぎだよね、わたしの手。何様」
「ほんとそれ」
「あんたが言うな」
タオルの下で、ちょっと笑ってしまった。
お母さんにさわれない手で、わたしの頭を、ぐしゃぐしゃにする。
それが、変に、うれしかった。
……いやいや。
うれしくない。
うれしくなんて、ないってば!
夜中。
わたしの部屋の電気は、今日もついていた。
お姉ちゃんは、床に敷いた座布団に座って、わたしの漫画を勝手に読んでいた。
「これ、続き出てる?」
「出てる。十二巻」
「持ってないの?」
「お金ない」
「買ってやりたいけど、わたしお金ないんだよなー。死んでるから」
「またそのネタ!」
「いいじゃん、使えるうちに使っとかないと」
なんだ、その理屈。
わたしは、布団にもぐりこんだ。
電気はつけたまま。
お姉ちゃんが、ページをめくる音だけが聞こえる。
それが、妙に落ち着く。
……落ち着いちゃダメなのに。
どうせ、明日の朝には、いなくなるんだから。
「ねえ、お姉ちゃん」
「ん」
「来週も、来るの?」
「たぶんね」
「また、たぶんなの」
「だって、ほんとにわかんないんだもん」
お姉ちゃんは、漫画から目を上げずに言った。
「でも、来れたら来る」
「それ、先週も言ってた」
「だって、事実だし」
事実。
その言葉が、ちょっとだけ、重く聞こえた。
わたしは、天井を見た。
来れたら、来る。
来れなかったら、来ない。
それだけのことなのに。
どうして、こんなに不安になるんだろう。
「……ちゃんと、来てよね」
勝手に、口から出ていた。
言ってから、はっとした。
やばい。
今の、聞こえた?
お姉ちゃんは、漫画を、ぱたんと閉じた。
「柚」
「な、なに」
「あんたさ」
お姉ちゃんは、にやっと笑った。
「やっぱり、さびしがりだな」
「ちがう!」
「まじで?」
「まじで!」
「ふーん。じゃあ、来週は来なくていい?」
「……それは、それで困る」
「あはは! ほらね!」
お姉ちゃんは、お腹をかかえて笑った。
くやしい。
ほんとに、くやしい。
でも、わたしも、ちょっとだけ笑っていた。
目をとじる。
まぶたの向こうで、電気の明かりが、あたたかく光っていた。
眠ったら、お姉ちゃんは、いなくなる。
わかっている。
それでも、今日は、昨日よりちょっとだけ、眠るのが怖くなかった。
どうしてだろう。
わからない。
わからないけど。
お姉ちゃんの、ページをめくる音が、子守唄みたいに聞こえた。
「おやすみ、ちび」
その声を聞いて、わたしは。
つぎの水曜日までの七日間が、ほんのちょっと、短くなった気がした。




