第18話 カレー研究所、再開
その夜。
お母さんが帰ってきたのは、九時すぎだった。
わたしは、リビングで、待っていた。
青いノートを、膝の上にのせて。
「お母さん」
「……柚」
「朝は、ごめんなさい」
お母さんは、玄関で、立ちどまった。
わたしは、立ちあがって、頭を下げた。
「平気なわけ、ないのに。ひどいこと、言った」
「いいのよ」
「よくない。ごめんなさい」
「……いいの」
お母さんは、鞄を床に置いて、わたしのそばまで、歩いてきた。
それから、ぎゅっと、わたしを抱きしめた。
お母さんの肩は、細くて。
でも、すごく、あったかかった。
「お母さんも、ごめんね。柚の気持ちも、聞かずに」
「……うん」
「ずっと、柚に、強がってた。ほんとは、わたしも、ぜんぶ、捨てられないの」
「うん」
「片づけようって、決めたのに。あの子の靴下一足、手に取っただけで、動けなくなるの」
お母さんの声は、小さかった。
わたしは、お母さんの背中に、そっと、手をまわした。
リビングの隅で、お姉ちゃんが、立っていた。
泣いているのか、笑っているのか、わからない顔で。
「お母さん、これ」
わたしは、青いノートを、さしだした。
「お姉ちゃんの部屋で、見つけたの」
「……『カレー研究所』?」
お母さんは、ノートを受け取って、ゆっくり、ページをめくった。
一ページ。
二ページ。
三ページ。
最初は、不思議そうな顔だった。
それが、だんだん、変わっていった。
口もとが、ゆるんで。
目じりが、下がって。
それから、ぽろっと、涙が、ノートに落ちた。
「……なに、これ」
お母さんは、泣きながら、笑っていた。
「煙で、火災報知器が鳴った、って……そういえば、鳴ってたわね。夜中に。あの子、『虫が燃えた』って、言いわけして」
「虫?」
「そう。意味がわからないでしょ」
「わかんない」
「でも、あの子、ほんとに、必死の顔でね」
お母さんは、最後のページまで来て、手を止めた。
『お母さんの誕生日に、これで、カレー作ってあげる!!!
(……できたら)』
お母さんは、そのページを、じっと見つめた。
長い、長い時間。
それから、ふうっと、息をはいた。
「……できたら、って」
声が、ふるえていた。
「できなくても、よかったのに」
「お母さん」
「できなくても、いいのよ。あの子の、気持ちだけで」
お母さんは、ノートを、ぎゅっと、胸に抱いた。
わたしは、何も言えなかった。
そのとき、お姉ちゃんが、ぽつんと、つぶやいた。
「……お母さん、ごめん。間に合わなくて」
お母さんの動きが、止まった。
顔を、ゆっくり、上げた。
そして、リビングの隅を、まっすぐ、見た。
お姉ちゃんの、立っているあたり。
「……今、何か」
「お母さん?」
「ううん。なんでもないの。……ただ」
お母さんは、ふっと、笑った。
「あの子、ここにいる気がして」
わたしは、息をのんだ。
お姉ちゃんは、口を、ぽかんと開けていた。
「……いるよ」
わたしは、言った。
「いるよ、お母さん。ほんとに」
「柚」
「お姉ちゃん、毎週水曜日に、帰ってくるの。ずっと、言えなかったけど」
お母さんは、わたしの顔を、じっと見た。
笑わなかった。
疑うでもなく、驚くでもなく、ただ、深く、見つめていた。
「……そう」
お母さんは、うなずいた。
「そうだったのね」
「信じて、くれるの?」
「信じるわよ。あなたの、お母さんだもの」
お母さんは、わたしの頭を、ぽんぽんと撫でた。
「だって、最近のあなた、ほんとうに、いい顔してたもの。ずっと、誰かと、楽しそうに話してた」
「……うん」
「あの子のおかげ、だったのね」
「うん」
お母さんは、リビングの隅に向かって、ゆっくり、頭を下げた。
「茜。……ありがとう。柚のそばに、いてくれて」
お姉ちゃんは、両手で口をおさえて、肩を、ふるわせていた。
涙が、ぽろぽろ、こぼれていた。
わたしは、その横顔を見ながら、思った。
お母さんに、聞こえてなくても。
ちゃんと、届いてる。
その夜、お母さんは、青いノートを持って、台所に立った。
「今から、作ってみようかしら。この、カレー」
「えっ、今から!?」
「だって、あの子の研究、ここで終わらせたら、もったいないでしょう」
お母さんは、ちょっと、いたずらっぽく笑った。
それから、わたしに、エプロンを投げた。
「柚、玉ねぎ、切って」
「えー、目に染みるじゃん」
「ゴミが入ったって、言えばいいのよ」
「……お母さん、どこでそれ、聞いたの」
「さあね」
台所の隅で、お姉ちゃんが、ぷっと吹き出した。
三人で、カレーを作った。
お母さんと、わたしと、見えないお姉ちゃん。
玉ねぎを炒めて、にんじんを切って、じゃがいもを、ころころ転がして。
お姉ちゃんが、あれこれ口を出した。
「あー、玉ねぎ、もっと炒めて! 三十分って書いてあるじゃん!」
「聞こえてないよ」
「じゃあ、柚が言って」
「お母さん、玉ねぎ、あと三十分、炒めるんだって」
「そんなに?」
「お姉ちゃんが、そう言ってる」
「……あの子、ほんとに、細かいのね」
お母さんは、笑った。
そうしているうちに、台所に、カレーのにおいが、ひろがった。
お姉ちゃんは、鍋の前で、目をとじて、鼻をひくひくさせていた。
「……あー、このにおい」
「どう?」
「お母さんのカレーのにおい。ずっと、これが、食べたかった」
お姉ちゃんの声は、少し、かすれていた。
お母さんが、できあがったカレーを、お皿にもりつけた。
お茶碗じゃなくて、お皿。
三つ、出した。
わたしは、ちょっとだけ、息をのんだ。
お母さんは、三つ目のお皿を、わたしの隣の席に、そっと、置いた。
「今日は、三人分ね」
「……お母さん」
「いいのよ。わたしが、そうしたいの」
お姉ちゃんは、お皿の前に立って、しばらく、動かなかった。
それから、ゆっくり、スプーンに、指をのばした。
指が、柄の手前で、止まる。
わたしは、息を、止めた。
お姉ちゃんは、そっと、スプーンの柄に、触れようとした。
……すかっ。
指は、通りぬけた。
お姉ちゃんは、一度、目をとじた。
それから、ふっと笑って、首を横にふった。
「……やっぱ、だめか」
わたしは、お姉ちゃんのとなりに立って、小さな声で言った。
「今日は、においだけでも、いいんじゃない?」
「……うん。そうする」
お姉ちゃんは、お皿の上の湯気に、顔を近づけた。
目を、とじて。
ゆっくり、すうっと、息を吸いこむふりをした。
「……おいしい」
小さな声だった。
わたしと、お姉ちゃんにしか、聞こえない声。
お母さんは、カレーをひと口食べて、首をかしげた。
「……なんか、ちがうわね」
「えっ」
「あの子の、レシピ通りに作ったのに」
「どこがちがう?」
「うーん……」
お母さんは、もうひと口、食べた。
「あ。わかった」
「なに?」
「あの子のノート、隠し味、ぜんぶ、まちがってる」
「ええええ!?」
お姉ちゃんが、床に崩れ落ちた。
「二十回も、研究したのに!?」
「お母さんのカレーの隠し味はね、実は、インスタントコーヒーなの」
「えっ」
わたしと、お姉ちゃんの声が、そろった。
「ほんの少しだけ、入れるのよ。ずっと、内緒だったんだけど」
お母さんは、いたずらっぽく笑った。
「あの子、ブラックが苦手だったから、気づかなかったのね」
お姉ちゃんは、床に突っぷして、肩をふるわせていた。
泣いているのか、笑っているのか、よくわからない。
たぶん、両方だ。
「……コーヒー。お父さんが、毎週、置いてた、あのコーヒー」
「そう。お父さんも、これ、知ってるわよ」
「え!?」
「だって、あのカレー、お父さんの好物だったんだもの」
お母さんは、ふっと、遠くを見た。
「あの人、ほんとに、不器用でね。わたしは、ずっと、怒ってたけど」
「お母さん」
「今度、お父さんに、お墓の前で、会ってみようかしら」
わたしは、目を丸くした。
お母さんは、そんな、わたしの顔を見て、くすっと笑った。
「そんな顔しないの。ちょっと、考えてるだけよ」
お姉ちゃんが、床から顔を上げた。
泣き笑いの顔で、わたしを見ていた。
それから、ぐっと、親指を立てた。
お父さんと、そっくりの、仕草で。
夜十一時。
部屋に戻ると、お姉ちゃんは、ベッドのふちに、すとんと座った。
「……柚」
「ん」
「ありがと」
「なにが」
「ぜんぶ」
お姉ちゃんの輪郭が、前より、さらに、薄かった。
ベッドの足の模様が、お姉ちゃんの体ごしに、ぼんやり、透けて見える。
手を伸ばせば、そのまま、すり抜けそうなくらい。
「お姉ちゃん」
「ん?」
「この前の、言っておかなきゃいけないこと、いつ話す?」
「……来週」
「また、ひっぱる」
「今度は、ほんとに言う。約束する」
お姉ちゃんは、そう言って、わたしの顔を、まっすぐ、見た。
約束、って、言った。
はじめて、そう言った。
わたしは、それを、胸のなかに、そっと、しまった。
「……じゃあ、来週ね」
「うん。来週」
「来れたら、来る?」
わたしがそう聞くと、お姉ちゃんは、一瞬、きょとんとして。
それから、にっと、笑った。
「来れたら、来る」
いつもの、口ぐせ。
でも、今日は、その言葉が、ちょっとだけ、あたたかく聞こえた。
お姉ちゃんは、ベッドに寝ころがって、わたしの手を、きゅっと、にぎった。
あったかい。
でも、ほんの少し、軽かった。
それが、怖かった。
「おやすみ、ちび」
「……おやすみ、お姉ちゃん」
電気は、ついたまま。
わたしは、にぎられた手を、ぎゅっと、にぎりかえした。
どうか。
あと、ちょっとだけ。
ほんの、ちょっとだけ、長く。




