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第17話 ちびのバカ

 その日の学校は、どうやって過ごしたのか、あんまり覚えていない。


 彩が、何度か心配そうに話しかけてくれた。


 瀬戸くんも、「橘さん、顔色悪いよ」と言ってくれた。


 わたしは、全部、「だいじょうぶ」で返した。


 たぶん、また、笑ってごまかしていた。


 ……いや。


 ごまかせていなかった、と思う。


 彩が、なんにも言わずに、わたしのお弁当に、自分の卵焼きを、そっとのせてくれたから。


「……ありがと」


「うん」


 それだけで、ちょっと、泣きそうになった。


  


 夕方。


 家に帰ると、お母さんは、まだ、パートから戻っていなかった。


 台所に、お姉ちゃんが、いた。


 食卓の椅子に、膝をかかえて、座っていた。


 わたしは、玄関で、立ちつくした。


 謝らなきゃ。


 お姉ちゃんにも、お母さんにも。


 でも、口を開くと、また、変なことを言ってしまいそうで。


 先に、お姉ちゃんが、言った。


「お母さん、パート、休んだらしいよ。さっき、ちょっとだけ家に寄って、また出てった」


「……そう」


「あんたの部屋のドアの前で、しばらく、立ってた」


「わたしの?」


「うん。ノックしようとして、やめてた」


 胸が、きゅうっとなった。


 あのお母さんが。


 わたしに、ノックするのを、ためらって。


「……最悪だ、わたし」


「うん、最悪だね」


「そこは否定してよ!」


「だって、事実だし」


 お姉ちゃんは、くすっと笑った。


 わたしは、へなへなと、向かいの椅子に座った。


「ねえ、お姉ちゃん」


「ん」


「お姉ちゃん、ほんとに、片づけられても、いいの?」


 お姉ちゃんは、しばらく、黙っていた。


 それから、ゆっくり、首をふった。


「……ほんとは、ちょっと、いや」


「やっぱり」


「でも、お母さんの気持ちの方が、大事」


「なんで」


「だって、わたしは、もう、お母さんに、何もしてあげられないから」


 お姉ちゃんは、自分の手のひらを、見つめた。


 その手のひらは、窓の光を、うっすら、通していた。


「お母さんに触れないし、声も届かない。だから、せめて、お母さんが、前に進もうとするのを、邪魔したくない」


「……それで、いいの?」


「いいわけないよ。でも、そうしたい」


 お姉ちゃんは、顔を上げた。


「柚。わたしの部屋、見に行こうか」


「え?」


「ふたりで。お母さんが片づける前に。……あ、わたしには、あんたが開けたドアなら、開けられるから」


「どういうルール」


「知らん。でも、たぶん、いける」


 お姉ちゃんは、立ちあがった。


 わたしも、立ちあがった。


 廊下の突きあたり。


 お姉ちゃんの部屋の前。


 ドアノブに、手をかけた。


 冷たかった。


 深呼吸を、ひとつ。


 ドアを、ゆっくり、開ける。


  


 部屋は、思ったよりも、ふつうだった。


 ベッド。机。本棚。


 壁には、友達と撮った写真が、ピンで、いくつも留めてある。


 床には、読みかけの雑誌が、積んであった。


 枕もとには、パジャマが、くしゃっと脱ぎ捨ててあった。


「……うわ」


「うわって、なに」


「ほんとに、あの日のまんまだ」


 お姉ちゃんが、ぽつりと言った。


 わたしは、その言葉の意味を、すぐには、聞けなかった。


 お母さんは、四か月間、この部屋を、そっとしておいたんだ。


 ほこりも、ほとんど、積もっていない。


 きっと、毎週、掃除していたんだ。


 物の位置を、動かさないように。


「お姉ちゃん、片づけ、下手すぎない?」


「うるさい」


「靴下、片方だけ、ベッドの下に落ちてるし」


「あ、ほんとだ。探してたやつ」


 お姉ちゃんは、ベッドの下を、のぞきこんだ。


 そこで、手を止めた。


「……あれ」


「なに?」


「こんなの、あったっけ」


 お姉ちゃんが、ひっぱり出したのは、ちいさな、青いノートだった。


 表紙に、油性ペンで、書いてある。


『カレー研究所』


「カレー研究所?」


「……あー。思い出した。これ、わたしのだ」


 お姉ちゃんは、顔を赤くした。


 ページを、ぱらぱらめくる。


 そこには、へたくそな字と、へたくそなイラストが、ぎっしり並んでいた。


『お母さんのカレー、再現計画 第一回』


『ルー、市販の。たぶん同じ。でも、味がちがう』


『玉ねぎ、あめ色になるまで炒める? 三十分? 長っ!』


『第三回、失敗。焦げた。煙で、火災報知器が鳴った』


『第五回、隠し味、りんご? はちみつ? わからん』


『第八回、なんか、ちがう』


「ぶはっ」


 わたしは、吹き出した。


「お姉ちゃん、これ、何回、挑戦したの」


「二十回くらい……かな」


「ぜんぶ失敗じゃん」


「うるさい! あれ、ほんとに、むずかしいの!」


 お姉ちゃんは、ノートを、ぱたんと閉じようとした。


 わたしは、それを、ひょいっと取りあげた。


 最後のページに、赤いペンで、大きく書いてあった。


『お母さんの誕生日に、これで、カレー作ってあげる!!!


 (……できたら)』


 笑っていた顔が、すうっと、止まった。


 お母さんの誕生日、十月の最後の水曜日。


 お姉ちゃんが死んだのは、六月。


 つまり、これは、間に合わなかった、プレゼントだ。


「……お姉ちゃん」


「あー、もう。見ないでよ、恥ずかしい」


 お姉ちゃんは、ふいっと、顔をそむけた。


 でも、肩が、小さく、ふるえていた。


「お母さんの誕生日に、びっくりさせたかったんだよ。なのに、全然できなくて、結局、ケーキ買ってこようって、思ってて」


「……ショートケーキ」


「そう」


 お姉ちゃんは、ふっと、笑った。


「毎年、まちがえてたやつ」


「うん」


 わたしは、ノートを、胸に抱いた。


 このノートを、お母さんが見たら、どうなるだろう。


 ぜったいに、泣く。


 でも、きっと、笑う。


「お姉ちゃん」


「ん」


「これ、お母さんに見せていい?」


「……だめ、って言ったら?」


「見せる」


「ひどい」


「だって、お母さんに、知っててほしいもん」


 お姉ちゃんは、目を丸くした。


 それから、ゆっくり、笑った。


「ほんと、あんた、勝手になったね」


「お姉ちゃんの妹だから」


「……そうだね」


 お姉ちゃんは、わたしの頭に、ぽんと、手をのせた。


「ちび、おっきくなった」


「ちびじゃない」


「ちびだよ」


「バカ」


「ちびのバカ」


「お姉ちゃんの、バカ」


 ふたりで、顔を見あわせて、ちょっと、泣いて、ちょっと、笑った。


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