第16話 お母さんの、段ボール
水曜日の朝。
目を開けたら、お姉ちゃんが、天井にいた。
天井に。
仰向けで、ふわふわ浮かんで、わたしを見下ろしている。
「おはよ」
「……何してるの」
「重力の実験」
「降りて。心臓に悪い」
「でも、だいぶ軽いんだよね、最近。この体」
お姉ちゃんは、くるっと一回転して、床に着地した。
笑っていた。
けど、その輪郭は、朝の光の中で、やっぱり、ちょっと薄かった。
見ないふりをして、わたしは、制服に着がえた。
先週、「ちゃんと来て」って言ったのは、わたしだ。
来てくれた。
だから、今日は、それだけでいい。
事件は、朝ごはんの席で起きた。
「柚、今度の土曜日、空いてる?」
お母さんが、トーストにバターをぬりながら言った。
「うん、空いてるけど。なに?」
「茜の部屋を、片づけようと思って」
……え?
トーストを持つ手が、止まった。
「手伝ってくれる? あなたの物も、まざってるかもしれないし」
「片づけるって」
「必要な物と、そうじゃない物を分けるの。ずっとそのままにしておくわけにも、いかないでしょう」
お母さんの声は、おだやかだった。
おだやかすぎて、ぞっとした。
お姉ちゃんの方を見る。
お姉ちゃんは、お母さんの隣で、立ったまま、固まっていた。
笑顔の途中みたいな顔で。
「いや、でも、まだ……」
「もう四か月よ、柚」
「四か月しか、たってないじゃん!」
声が、大きくなった。
「しか、じゃないの。ちゃんと、前に進まなきゃ」
「進むって、なに? お姉ちゃんの物を、捨てること?」
「捨てるんじゃないの。整理するの」
「同じことでしょ!」
「柚」
「やだ! 絶対やだ!」
わたしは、立ちあがった。
椅子が、がたん、と倒れた。
「お母さんは、お姉ちゃんがいなくなって、平気なんだ!」
言った瞬間。
台所の空気が、凍った。
お母さんの顔から、すうっと、表情が消えた。
……やばい。
言っちゃった。
言っちゃいけないやつを。
「……平気、ですって?」
お母さんの声は、低かった。
怒っているんじゃなくて、なんだか、ひどく、疲れた声だった。
「平気なわけ、ないでしょう」
「お母さん、わたし」
「毎晩、あの子の部屋の前で、立ちどまってるのよ。ドアを開けるのが怖くて。でも、開けないと、もっと怖くて」
お母さんは、トーストを、お皿に置いた。
手が、ふるえていた。
「それでも、片づけなきゃって思ったの。あの子の物に、いつまでも囲まれて、泣いてばかりいたら、きっと、あの子は、喜ばないから」
わたしは、何も言えなかった。
お姉ちゃんが、お母さんの横で、唇をかんでいた。
お母さんには、触れない。
声も、届かない。
お姉ちゃんは、ただ、そこで、お母さんの顔を、見ているしかなかった。
「……ごめんなさい。先に、行くわね」
お母さんは、パートの鞄をつかんで、玄関に向かった。
ドアの閉まる音が、やけに、大きく響いた。
台所に、わたしと、お姉ちゃんだけが、残された。
「柚」
お姉ちゃんが、そっと言った。
「いまのは、言いすぎ」
「……わかってる」
「お母さんに、謝んなきゃ」
「わかってるってば!」
わたしは、お姉ちゃんに、向きなおった。
「お姉ちゃんは、いいの!? 部屋、片づけられても!」
「……うん」
「なんで!」
「だって、お母さんの言うとおりだもん」
お姉ちゃんは、あっさり言った。
あっさりすぎて、むかついた。
「お姉ちゃんの物なんだよ!? お姉ちゃんが、ここにいたっていう、証拠なんだよ!?」
「物は、証拠じゃないよ」
「じゃあ、なに!」
「わたしは、あんたの、目の前にいるじゃん」
お姉ちゃんは、にかっと笑った。
でも、その笑顔が、わたしには、すごく、いやだった。
だって、それ、いつか、いなくなる人の言い方だ。
「……もういい」
「柚」
「お姉ちゃんなんか、知らない」
わたしは、カバンをつかんで、家を飛びだした。
最低だ。
お母さんにも。
お姉ちゃんにも。
ひどいことを言った。
それなのに、一番ひどいのは、自分だってことが、わかっていた。
わかっているのに、止められなかった。
……なんで、わたしは、いつも、こうなんだろう。
学校に着くまで、お姉ちゃんは、ついてこなかった。
わたしも、ふり返らなかった。




