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第15話 おかえり、遅かったじゃん

 次の水曜日。


 目が覚めた瞬間、わたしは、一気に起きあがった。


 部屋を、ぐるっと見まわす。


 ……いない。


 机の前にも。


 床にも。


 窓の外にも。


 胸が、きゅうっと縮まった。


 また、来なかった?


 もしかして、もう、ずっと。


「いやいや、そんな、まさか」


 声に出して、自分に言い聞かせた。


 大丈夫。


 まだ、朝だ。


 いつも、昼ごろに来る日もあったし。


 たぶん。


 でも、その日も、学校にいる間じゅう、お姉ちゃんは、現れなかった。


 お昼も。


 午後も。


 放課後、瀬戸くんが、「橘さん、大丈夫? 元気ない?」と声をかけてくれたけど、わたしは、「うん、平気」としか答えられなかった。


 帰り道、足が、重かった。


 家に着いて、玄関を開ける。


 電気は、ついていなかった。


「……ただいま」


 返事は、ない。


 台所に行く。


 冷蔵庫を、開ける。


 プリンを、ふたつ、買っておいた。


 もちろん、お姉ちゃんの分も。


 その、お姉ちゃんの分のプリンが、冷蔵庫の中で、ぽつんと、ひとりで待っていた。


 わたしは、それを、じっと見つめた。


 それから、冷蔵庫を、閉めた。


 食べる気には、なれなかった。


  


 夜八時。


 お母さんが、帰ってきた。


 晩ごはんを食べて、片づけをして、お風呂に入って。


 いつもどおりの、水曜日。


 お姉ちゃんが、いないだけの。


 十時になって、わたしは、ベッドに入った。


 電気は、ついたまま。


 もう、期待するのは、やめよう。


 そう思った。


 期待するから、がっかりする。


 最初から、期待しなければ、傷つかない。


 わたしは、そうやって、ずっと、生きてきたじゃん。


 目を、とじた。


 そのとき。


 ごそっ。


 ……ん?


 ごそごそっ。


 ベッドの足元で、何かが、動いた。


 わたしは、ゆっくり、目を開けた。


 お姉ちゃんが、いた。


 ベッドのふちに、ちょこんと座って、すごく、気まずそうな顔で、頭をかいていた。


「……や、やっほー」


 わたしは、何も言えなかった。


 口が、ぱくぱく動いた。


 お姉ちゃんは、へらっと笑った。


「ごめん。遅れた」


 その、声。


 その、顔。


 ジャージ。


 左右ちがいの靴下。


 黄色いヘアゴム。


 ……頭の中で、何かが、ぷつっと切れた。


「遅れたじゃないでしょ!!!」


 叫んでいた。


 自分でも、びっくりするくらい、大きな声が出た。


 お姉ちゃんが、びくっと肩をすくめる。


「先週、来なかったでしょ! 今日も、夜までずっと、来なかったでしょ! わたし、ずっと待ってたんだよ!?」


「ご、ごめん」


「ごめんで済むわけないじゃん! どれだけ心配したと思ってるの!」


「柚」


「お墓にも行った! 屋根にも上がった! 名前も呼んだ! 全部、無視したくせに!」


「無視してない! 聞こえなかったんだって!」


「うそだ!」


「うそじゃない!」


「じゃあ、なんで来なかったの!」


「わかんないんだよ!!」


 お姉ちゃんの声も、大きくなった。


 部屋が、しんとした。


 お姉ちゃんは、唇をぎゅっとかんでいた。


 目が、赤かった。


「わたしだって、来たかったよ。来るつもりだったよ。でも、水曜日の朝になっても、目が覚めなくて。いや、目が覚める、っていうのも、変なんだけど。気づいたら、どこか、真っ暗なところにいて。あんたの声は、遠くで、聞こえてて」


 お姉ちゃんは、そこで、言葉を切った。


「呼ばれてるのは、わかってた。でも、動けなかった。……ごめん」


 わたしは、握りこぶしを、ぎゅっとにぎった。


「……じゃあ、また、来れなくなるの?」


「わかんない」


「来週も?」


「わかんない」


「その次は?」


「……わかんない」


 お姉ちゃんは、うつむいた。


「でも、ひとつだけ、ほんとのことを言う」


「なに」


「今日、来れたのは、あんたが、呼んだからだと思う」


「……え?」


「真っ暗なところで、ずっと、あんたの声が、聞こえてたの。『うそつき』って。『来れたら来るって言ったじゃん』って」


 わたしは、息をのんだ。


「あの、夜中に、枕に叫んでたやつ」


「うん。聞こえてた。全部」


「え、やだ、はずかしい」


「ぶっさいくな顔だったね」


「見えてたの!?」


「見えてない。声だけ。でも、声が、ぶっさいくだった」


「ひどい!」


 お姉ちゃんは、泣き笑いの顔で、わたしを見た。


 わたしも、泣き笑いの顔になっていたと思う。


「……ばか」


「うん」


「ほんと、ばか」


「うん」


「心配、したんだから」


「うん。ごめん。ありがと」


 お姉ちゃんは、ベッドの上を、にじり寄ってきた。


 そして、両手で、わたしの頬を、むにっとつかんだ。


「いたっ!」


「つねってやる」


「なんで!」


「だって、あんたが怒るから」


「怒って当然でしょ!」


「でも、ちょっと、うれしかった」


「は?」


「あんたが、わたしのために、そんなに怒ってくれたこと。うれしかった」


 お姉ちゃんは、わたしの頬を、つねるのをやめた。


 そして、そのまま、手のひらで、やさしく包んだ。


 あったかかった。


 先週の、ずっと、探していた、あったかさだった。


 わたしの目から、また、ぼろぼろ、涙がこぼれた。


「……泣いてないから」


「はいはい」


「ゴミ、入っただけ」


「毎回、ゴミ入りすぎでしょ。あんたの目、ゴミ処理場なの?」


「うるさい!」


 お姉ちゃんが、笑った。


 わたしも、笑った。


 泣きながら。


 鼻水も出ながら。


 ぐちゃぐちゃのまま。


 しばらくして、お姉ちゃんが言った。


「ねえ、柚」


「なに」


「プリン、ある?」


「……ある。冷蔵庫に」


「やった」


 わたしは、お姉ちゃんといっしょに、台所に降りた。


 お母さんは、もう寝ていた。


 暗い台所で、冷蔵庫を開ける。


 プリンが、ふたつ、並んでいた。


 わたしは、片方を、お姉ちゃんに渡した。


「はい」


「ありがと」


 ふたりで、床に座って、プリンを食べた。


 カラメルが、ちょっとだけ、苦かった。


 でも、おいしかった。


 お姉ちゃんは、一口食べて、目をとじた。


「……うま」


「でしょ」


「生き返る」


「死んでるけどね」


「あ、そうだった」


 ふたりで、ぷっと吹き出した。


 あの日と、まったく、同じやりとりだった。


 最初の水曜日と。


 それなのに、今は、ぜんぜん、ちがう意味に聞こえた。


「ねえ、お姉ちゃん」


「ん」


「おかえり」


 お姉ちゃんの手が、止まった。


 それから、ゆっくり、わたしの方を向いた。


「……ただいま」


 声が、ちょっとだけ、ふるえていた。


「遅かったじゃん」


「うん。遅れて、ごめん」


「許さないけど」


「えっ」


「でも、また、来て」


「……うん」


「毎週、ちゃんと、来て」


「うん」


 お姉ちゃんは、約束とは、言わなかった。


 わたしも、約束とは、言わなかった。


 できるかどうか、わからないことを、約束にしたら、それは、嘘になっちゃう気がしたから。


 でも、わたしは、小指を、お姉ちゃんの前に、つきだした。


「……指切り」


「ええー、小学生か」


「うるさい。やるの」


「はいはい」


 お姉ちゃんの小指が、わたしの小指に、からまった。


 あったかい。


 ちゃんと、ここに、いる。


「ゆびきりげんまん、うそついたら、はりせんぼん、のーます」


「ゆび切った」


 ぱっと、指を離した。


 それだけで、胸の奥が、ふわっと軽くなった。


「……お姉ちゃん」


「ん?」


「輪郭、ちょっと、薄いよ」


「あー、やっぱり、わかる?」


 お姉ちゃんは、自分の手を、ひらひらさせた。


 向こう側の、冷蔵庫の扉が、うっすら、透けて見えた。


「だいぶ、減ったみたい。体力っていうか、時間っていうか」


「時間?」


「うん。わたしが、こっちにいられる時間」


 お姉ちゃんは、笑っていた。


 でも、その笑顔は、ちょっと、ちがっていた。


 もう、ごまかしていなかった。


 ちゃんと、本当のことを、話そうとしている顔だった。


「だから、あんたに、ちゃんと言っておかなきゃいけないことが、ある」


「……なに」


「でも、今日は、もう遅いから、また今度」


「えええ!? ここまで引っぱっておいて!?」


「だって、わたし、今日、ほんとに眠いんだもん」


「幽霊って、眠くなるの!?」


「なるよ。びっくりでしょ」


 びっくりだ。


 けど、わたしは、笑ってしまった。


 お姉ちゃんが、あくびをした。


 つられて、わたしも、あくびをした。


「もう、寝よ」


「うん」


 ふたりで、階段を、そっとのぼった。


 部屋に戻って、わたしは、ベッドに入った。


 電気は、ついたまま。


 お姉ちゃんが、床に座って、漫画を、ひらいた。


「十二巻、読み終わったら、十三巻、買っといて」


「やだ。自分で買って」


「お金ないって」


「じゃあ、我慢」


「ひどい」


 ぺらっと、ページをめくる音がした。


 それを聞いて、わたしは、やっと、安心して、目をとじた。


 お姉ちゃんが、小さな声で、言った。


「おやすみ、ちび」


「……おやすみ、お姉ちゃん」


 明日の朝には、いない。


 それは、変わらない。


 でも、また、来週、会える。


 ……来れたら、来る、だけど。


 それでも、わたしは、今日、ちゃんと、「おかえり」が言えた。


 それだけで、いい。


 今は、それだけで、いい。


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