第14話 来なかった水曜日
水曜日の朝、目が覚めたとき。
わたしは、先に、天井を見た。
それから、ゆっくり、首を右にまわした。
誰も、いない。
床にも。
机の前にも。
窓の外の、屋根の上にも。
……まだ、六時前だ。
いつも、お姉ちゃんが現れる時間は、まちまちだし。
ごはんを食べているうちに、ひょっこり出てくるかもしれない。
そう思って、わたしは、台所に行った。
「おはよう、柚。早いわね」
「うん。ちょっと、目が覚めちゃって」
お母さんは、卵を焼いていた。
お茶碗は、ふたつ。
台所に、お姉ちゃんは、いない。
学校に着いても、お姉ちゃんは、いなかった。
一限目。
二限目。
三限目。
わたしの隣の空席は、ただの空席だった。
誰も座っていない、ただの椅子。
先週までは、そこに、ふざけた顔の幽霊が、座っていたのに。
「柚、今日、ぼんやりしてるね」
お昼休み。
彩が、小声で言った。
わたしが、お姉ちゃんのことを話してから、彩は、水曜日になると、さりげなく、わたしの隣の席を、見るようになった。
「……今日、いないの」
わたしも、小声で返した。
「そっか」
「たぶん、来るのが遅れてるだけ」
「うん」
「だって、来れたら来るって、いつも言ってたし」
「うん」
彩は、わたしの手を、ぎゅっとにぎった。
わたしは、お弁当に箸をつけた。
卵焼きの味が、全然しなかった。
放課後、わたしは、走って帰った。
玄関を開ける。
「ただいま!」
返事は、なかった。
台所。
リビング。
自分の部屋。
屋根の上。
どこにも、いない。
わたしは、窓から身を乗りだして、空を見上げた。
「お姉ちゃん!」
返事は、ない。
「お姉ちゃーん!」
風だけが、ひゅうっと吹いた。
わたしは、窓を閉めた。
それから、部屋の隅に座って、ひざをかかえた。
お墓かもしれない。
そう思って、お墓にも行ってみた。
夕方の坂道を、全力で走ってのぼって、息が切れて、足もがくがくだった。
お墓の前には、誰もいなかった。
缶コーヒーの横に、わたしは、ひとりで立っていた。
「……お姉ちゃん」
声が、ふるえた。
「どこ、行ったの」
墓石は、何も答えなかった。
あたりまえだ。
石だもん。
わたしは、その場にしゃがみこんで、墓石に、おでこをくっつけた。
ひんやり冷たかった。
お姉ちゃんの手みたいな、あったかさは、どこにもなかった。
夜。
お母さんが帰ってきて、晩ごはんの時間になっても、わたしは、ほとんど食べられなかった。
「柚、具合悪い?」
「ううん。ちょっと、食欲ないだけ」
「……そう」
お母さんは、それ以上、聞かなかった。
お風呂に入って、部屋に戻る。
電気をつけたまま、ベッドに入った。
時計は、十一時。
十一時二十分。
十一時四十分。
わたしは、天井を、ずっと見ていた。
お姉ちゃんの輪郭が、薄くなっていた先週の姿を、思い出す。
あのとき、もっと、ちゃんと、聞いておけばよかった。
ごまかされても、しつこく聞けばよかった。
十一時五十五分。
十一時五十九分。
零時。
日付が、変わった。
木曜日になった。
部屋の中は、しんとしていた。
ページをめくる音も。
おやすみ、ちび、の声も。
なにも、聞こえない。
「……うそつき」
声が、勝手に、こぼれた。
「来れたら来るって、言ったじゃん」
来れなかっただけだ。
来れなかったんだから、しょうがない。
お姉ちゃんが悪いわけじゃない。
わかってる。
わかってるのに。
「うそつき。うそつき、うそつき、うそつき!」
枕に顔をうずめて、叫んだ。
でも、声は、くぐもって、どこにも届かなかった。
涙が、出てきた。
止まらなかった。
お葬式のあと、三日間泣いて、それから、ずっと、泣かなかったのに。
彩の前で泣いたときよりも、もっと、ひどい泣き方だった。
鼻水も、よだれも、ぐちゃぐちゃで。
息が、うまくできなくて。
こんな顔、お姉ちゃんには、絶対、見せたくない。
でも、今は、見てほしかった。
いてほしかった。
笑って、「ぶっさいくな顔!」って言ってほしかった。
そうしたら、わたしは、「うるさい!」って怒鳴って、そのまま、一緒に笑えるのに。
そうなるはずだったのに。
わたしは、枕もとのリストを、ぎゅっとにぎった。
六と九と十。
六は、もう終わってる。
九と十は、まだ、白紙のまま。
十だけ、先に、書いてあるのに。
内容は、わからない。
わたしは、紙を、胸にだきしめて、そのまま、泣きつかれて、眠ってしまった。
電気は、ついたまま。
朝まで、ずっと、ついていた。
木曜日の朝、目が覚めたら、目が、ぱんぱんに腫れていた。
「……ひどい顔」
鏡の中のわたしは、まるで、おたふく風邪の人みたいだった。
お母さんが、朝ごはんの席で、心配そうにのぞきこんできた。
「柚、目が」
「ちょっと、変な夢見た」
「そう」
「うん」
お母さんは、冷蔵庫から、保冷剤を出して、タオルで包んで、わたしの目に当ててくれた。
ひんやりして、気持ちよかった。
「……ありがとう」
「いいのよ」
お母さんは、わたしの頭を、ぽんぽんと撫でた。
お姉ちゃんの手より、ちょっとだけ、小さくて、かたい手だった。
それでも、あったかかった。
わたしは、保冷剤の下で、また、泣きそうになった。
我慢して、ごはんを食べた。
なんでもない顔で、学校に行った。
もう、笑ってごまかすのは、やめたはずなのに。
やっぱり、ちょっとだけ、ごまかした。
それは、お母さんを、心配させたくなかったからだ。
これは、ごまかしじゃなくて、気づかい。
たぶん、そうだと思う。




