第9話 人生初のズル休み
水曜日の朝。
目覚ましが鳴る、五分前に、目が覚めた。
ぱちっと開いた、わたしの目。
お姉ちゃんが、わたしの顔をのぞきこんでいた。
「今日は、何点?」
「もう驚かないよ」
「つまんな」
わたしは、体を起こして、深呼吸をした。
それから、言った。
「お姉ちゃん」
「ん?」
「今日、学校サボる」
お姉ちゃんは、数秒間、固まった。
それから、爆発した。
「はあああ!? あんたが!? サボり!?」
「うるさい! お母さんにバレるでしょ!」
「あんた、皆勤賞でしょ! 小学校から一回も休んでないじゃん!」
「そうだけど!」
「なんで急に」
「海」
わたしは、リストを指さした。
『六、海』
「今日、行く。行けるうちに、行っておきたいから」
お姉ちゃんは、口をぽかんと開けたまま、何も言わなかった。
それから、ゆっくり、にやっと笑った。
「……あんたさ、ほんとに、わたしの妹?」
「どういう意味」
「いや、誇らしいなって思って」
「ズル休みで誇らしいって、おかしいでしょ!」
「だって、不良じゃん! かっこいい!」
「ちがう!」
お姉ちゃんは、手を叩いて笑っていた。
お母さんが、八時にパートに出かけたのを確認して、わたしは、受話器を握った。
「プルル、プルル……はい、〇〇高校です」
「あの、二年B組の橘です。ちょっと、お腹が、痛くて……」
「お大事にね。無理しないでね」
あっさり、通った。
受話器を置いた瞬間、お姉ちゃんが、床に転げて笑いこけた。
「あんた、声が、完全に棒読み! 『おなかが、いたくて』って!」
「しょうがないでしょ! 嘘ついたことないんだから!」
「ふふっ、最高。わたし、もう一回死んでもいい」
「縁起でもないこと言うな!」
駅のホームで、お姉ちゃんが、改札をふつうにすり抜けた。
「あっ、キセル」
「死んでるから、見逃して」
「ずるい!」
「柚が払ってくれたから、実質、オッケー」
「理屈になってない!」
電車に乗った。
制服姿のわたしは、ものすごく目立っていた。
平日の朝。
近くに座ってるおばあさんが、ちらちらこっちを見ている。
わたしは、ひたすら、窓の外を見た。
お姉ちゃんは、隣の席のすこし上で、座っているみたいにふわふわ浮かんで、足をぶらぶらさせていた。
「電車、久しぶり。大学行くときも、毎日乗ってたなあ」
「そうなの?」
「うん。朝、めっちゃ混むの。いつも、ドアのとこに押しつけられてた」
「ふーん」
「でも、今日は空いてるから、最高」
お姉ちゃんは、窓のそばに顔を寄せたまま、笑った。
その横顔は、すごく、静かだった。
……なんとなく、これ以上、聞いちゃいけない気がした。
電車とバスを乗りついで、二時間。
やっと、海が見えた。
十月の海は、ちょっと灰色で、風が強くて、思ったより、ずっと、広かった。
砂浜には、誰もいない。
わたしは、スニーカーのまま、砂の上に立った。
足が、ふわっと沈む。
「うわ、さむっ!」
「めっちゃ寒いね! でも、気持ちいい!」
お姉ちゃんは、海に向かって、思いっきり走っていった。
波打ちぎわで、足を止める。
寄せてきた波が、お姉ちゃんの足を、すっと通りぬけていった。
まるで、そこに、何もないみたいに。
お姉ちゃんは、自分の足元を見て、くすっと笑った。
「ぬれないんだ。ちょっと、さびしいな」
わたしは、お姉ちゃんの隣に立った。
砂の上には、わたしの足跡が、くっきり残っていた。
でも、お姉ちゃんの足跡は、ひとつもなかった。
わたしは、しゃがんで、小さな貝がらを、ひとつ拾った。
白くて、ちょっと欠けている。
それを、お姉ちゃんに向かって、さしだした。
「はい」
「え?」
「持ってみて」
お姉ちゃんは、おそるおそる、手をのばした。
指先が、貝がらに触れた。
「……さわれた」
お姉ちゃんが、目を丸くした。
「さわれた! 持てる! 重さもある!」
「わたしが拾ったから、わたしの物になったのかな」
「天才じゃん、柚!」
お姉ちゃんは、貝がらを両手でつつんで、子どもみたいに、はしゃいだ。
「やったー! 海のものだ!」
「あんまり、はしゃがないで。落とすよ」
「大丈夫、大事にする!」
貝がらを持ったまま、お姉ちゃんは、くるくる回った。
その姿が、潮風と、灰色の空に、ぼんやり溶けていた。
わたしは、ちょっと、胸の奥が、ぎゅっとなった。
そのうえ、何か、のどの奥に、つまった。
泣くな、わたし。
今日は、笑う日だ。




