第8話 缶コーヒーの謎
翌週の水曜日。
お化け屋敷の脚本は、まだ、真っ白だった。
ホームルームのあとの、わたしの机。
ルーズリーフを広げて、シャーペンを握ったまま、もう二十分くらい固まっている。
『暗い廊下。そこに、女の人が立っている』
その一行だけ。
それ以降が、出てこない。
「進んでないね」
お姉ちゃんが、わたしの肩ごしに、のぞきこんできた。
「うるさい。今、考えてるの」
「その一行、わたしがはじめて来た日のやつでしょ」
「……ちがう」
「ちがわない」
ちがわなかった。
これ以外、思いつかなかったのだ。
お姉ちゃんは、ふふっと笑った。
「しょうがないなあ。休憩しよ。ちょっと外行かない?」
「どこに?」
「ひみつ」
その言葉を聞いて、わたしは、ふと気づいた。
もうすぐ、お昼休みだ。
お姉ちゃんが、いつも消える時間。
「……お姉ちゃん」
「ん?」
「昼間、どこ行ってるの」
「だから、ひみつ」
「そろそろ、教えてくれてもよくない?」
お姉ちゃんは、じっとわたしの顔を見た。
いつもなら、ここで、ごまかされる。
でも、今日は。
「……ついてくる?」
そう言った。
わたしは、目をぱちぱちさせた。
「いいの?」
「あんた、この前、屋根に登ったでしょ。そろそろ、いいかなって」
どういう基準なんだ、それ。
わたしは、彩に「ごめん、委員会の用事あるから先に食べてて」と嘘をついて、お弁当をカバンに押しこみ、お姉ちゃんの背中を追いかけた。
学校の裏門を出て、細い坂道を、のぼっていく。
かなり急な坂だ。
お弁当のカバンが、わき腹にがんがん当たる。
「ちょ、ちょっと、待って! はやい!」
「あんた、運動不足すぎない?」
「お姉ちゃんは、息切れしないからでしょ!」
「たしかに。便利だわ、この体」
十分くらい歩いたところで、急に、景色がひらけた。
木々のあいだに、石が、ずらりと並んでいた。
……お墓だった。
「ここ」
お姉ちゃんは、いちばん手前の列の、いちばん端の、新しい墓石の前で立ちどまった。
石の表面に、彫ってある。
『橘家之墓』
わたしは、息をのんだ。
納骨のときに、一度だけ、来たことがある。
あのときは、ぼーっとしていて、景色なんて、ほとんど覚えていなかった。
それ以来、一度も来ていない。
来られなかった。
来たら、ほんとに、いなくなったことになる気がして。
「毎週、ここに来てたの?」
「うん。昼のあいだだけ」
「なんで」
「だって、見たいじゃん。自分のお墓。どんな感じなのか」
お姉ちゃんは、墓石をしげしげと眺めた。
「地味だね。橘家之墓って。もっとこう、ハートとか、ラメとか、ないの?」
「あるわけないでしょ!」
「えー。せめて、わたし専用のスペースほしかった。茜、ここに眠る、って」
「それ、普通に怖い!」
「幽霊の、自己紹介」
お姉ちゃんは、へらへらと笑っていた。
でも、わたしは、笑えなかった。
墓石の前には、花が、いくつも供えてあったから。
白い菊の花束。
小さなひまわりの花束。
それから、缶コーヒーがひとつ。
ブラックの、苦いやつ。
「これ、お母さんの。毎週、日曜日に来てる」
お姉ちゃんが、白い菊を指さした。
「こっちのひまわりは、ミサキ。大学の友達。あいつ、来るたびに泣いてんの。……ひまわり、わたしが好きだって、覚えててくれたんだよね」
「うん」
「で、問題は、これ」
お姉ちゃんは、缶コーヒーを、じーっと見つめた。
「毎週、置いてくの。誰だか、わかんないんだよ」
「誰か、見てないの?」
「見てない。わたし、昼のあいだにしか来られないし、置かれるのは、いつも夕方とか、朝とか」
「ふーん……」
「しかもさ、わたし、ブラック飲めなかったんだよ? 苦くて。誰だ、わたしの好み知らないの」
お姉ちゃんは、ぶつぶつ言いながら、缶コーヒーの位置を直そうとした。
手が、すかっと、缶をすり抜けた。
お姉ちゃんは、自分の手を見て、苦笑いした。
「……だめだ。わたし、柚の物以外は、さわれないんだった」
その横顔が、なんだか、すごく小さく見えた。
わたしは、カバンを足元に置いて、墓石の前にしゃがんだ。
缶コーヒーを、そっと持ち上げて、まっすぐに、置き直した。
「……ありがと」
お姉ちゃんが、小さい声で言った。
わたしは、何も言えなかった。
ただ、石の冷たさを、手のひらで感じていた。
「……来なくて、ごめん」
やっと、それだけ、言えた。
お姉ちゃんは、ぷっと吹き出した。
「何言ってんの。毎週、会ってるじゃん」
「そうだけど、そうじゃなくて」
「いいよ。来なくて」
「でも」
「だって、わたし、ここにいないし」
お姉ちゃんは、空を見上げた。
「ここ、わたしの骨があるだけだよ。わたし自身は、あんたの横にいるんだから。あんたが毎週、お墓の前で泣くのは、なんか、ちがう気がする」
「泣いてないし!」
「これから泣くかもしれないじゃん」
「泣かない!」
「あっそ。ならいいけど」
お姉ちゃんは、ふいっと顔をそむけた。
耳が、ちょっと赤い。
……照れてるのかな、これ。
まさか。
わたしは、鼻をすすった。
これは、風が冷たいからだ。
目にゴミが入っただけだ。
……って、これ、前にも言ったな。




