第6話 犬と、おばあちゃんと、屋根の上
水曜日の朝は、犬の声から始まった。
ワンワンワンワンワン!
「うるさ……」
窓の外で、近所のおばあちゃんが飼っている柴犬の、コタロウが吠えていた。
朝から、ものすごい剣幕だ。
ベッドから起きあがると、お姉ちゃんが、窓のそばに立っていた。
「やっぱり、吠えるんだ」
「え?」
「コタロウ。わたしのこと、見えてるっぽい」
わたしは、窓の外をのぞいた。
庭の向こうの、おばあちゃんの家の前で、コタロウが、こっちに向かって吠えている。
視線の先は、たしかに、お姉ちゃんだった。
「ほんとだ」
「動物には見えるのかな。それとも、わたしの気配、うるさいのかな」
「後者だと思う」
「失礼な!」
お姉ちゃんは、コタロウに向かって、ぶんぶん手を振った。
コタロウは、さらに吠えた。
……仲が悪いんだろうか。
生前から、あの犬は、お姉ちゃんにだけ、やたらと吠えていた気がする。
「ちょっと挨拶してくる」
「やめて。ご近所迷惑」
「大丈夫、わたし、犬に好かれるタイプだから」
「吠えられてるじゃん」
「あれは、愛情表現」
お姉ちゃんは、そのまま、窓から飛びおりた。
二階から。
わたしは、悲鳴を上げそうになって、あわてて口をふさいだ。
お姉ちゃんは、ふわっと、芝生の上に着地した。
まるで、ゆっくり落ちる羽みたいに。
幽霊って、便利だ。
じゃなくて!
心臓に悪い!
お姉ちゃんが、コタロウに近づくと、不思議なことが起きた。
コタロウが、急に静かになった。
それから、尻尾をふりはじめた。
ぱたぱた、ぱたぱた。
お姉ちゃんが、しゃがんで、コタロウの頭に、そっと手をのばした。
お姉ちゃんの手は、コタロウの頭を、すかっと通りぬけていた。
さわれて、いない。
それなのに、コタロウは、気持ちよさそうに、目を細めていた。
撫でてもらってるみたいに。
お姉ちゃんも、それをわかっているみたいに、何度も、何度も、手を動かしていた。
わたしは、窓から、その光景を見ていた。
お姉ちゃんが、犬と、仲直りしている。
なんか、変な気分だった。
たとえば、お姉ちゃんが生きていたころ、こんな風に、犬と並んでしゃがんでいる姿を、わたしは見たことがあっただろうか。
……ない、と思う。
お姉ちゃんは、家にいても、いつも忙しそうだった。
大学の課題。バイト。友達との約束。
わたしが話しかけても、「あとでね」が口ぐせだった。
だから、あんまり、ゆっくり話したことはなかった。
……そうか。
わたし、お姉ちゃんのこと、そんなに知らなかったのかもしれない。
「おや、柚ちゃん。おはよう」
玄関から出ると、コタロウの飼い主の、おばあちゃんが、ゴミ袋を持って立っていた。
「おはようございます」
「コタロウが、朝から騒いですまないね。今日は、なんだか興奮してて」
「いえ、大丈夫です」
おばあちゃんの視線が、ふと、わたしの後ろにそれた。
お姉ちゃんが、立っている方向。
あれ。
もしかして、見えてる?
一瞬、そう思った。
でも、おばあちゃんは、ゆっくり、にっこり笑った。
「最近、柚ちゃん、いい顔してるわね」
「えっ」
「前は、ちょっと、肩に力が入ってたけど。今は、すっと立ってる」
「そ、そうですか?」
「ええ。きっと、誰かのおかげね」
おばあちゃんは、それだけ言って、ゴミ捨て場に向かっていった。
わたしは、ぽかんとしていた。
誰かの、おかげ。
となりで、お姉ちゃんが、小さく鼻をならした。
「あのおばあちゃん、昔から、ちょっと鋭いんだよね」
「……見えてたのかな」
「さあ。でも、たぶん、全部わかってる気がする」
「どういうこと?」
「年の功ってやつ」
お姉ちゃんは、ふふっと笑った。
なんとなく、はぐらかされた気がしたけど。
まあ、いいや。
お昼休み。
お姉ちゃんは、教室にいなかった。
先週と同じ。
昼になると、どこかに消える。
どこに行っているのか、わたしは、ずっと気になっていた。
でも、聞けなかった。
聞いたら、いなくなってしまう気がして。
……いやいや。
それは、考えすぎ。
「柚、今日は、お弁当ひとりで食べるの?」
彩が、いつもの席に、お弁当を広げながら言った。
「え? ううん、彩と食べるよ」
「そっか。なんか、最近ときどき、誰かとしゃべってるみたいに、うなずいたり笑ったりしてるから」
ぎくっ。
「えっ、そう見える?」
「うん。変な意味じゃなくて、なんか楽しそうだなって」
「そ、そうかな。独り言かも」
「ふふ。独り言って、わたしもよく言うから、わかるよ」
彩は、あっけらかんと笑った。
いい子だ。
……本当のことを話したら、どうなるだろう。
お姉ちゃんが、毎週水曜日に帰ってくるって。
信じてくれるかな。
それとも、心配させちゃうかな。
「彩」
「ん?」
「もし、ありえないことが起きたとして、それを人に話すかどうか迷ってたら、どうする?」
「ありえないこと?」
「たとえば、の話ね」
彩は、少し考えてから、言った。
「わたしなら、話すと思う」
「どうして?」
「ひとりで抱えてるの、重いから」
……重い。
その言葉が、胸に、すとんと落ちた。
「でも、柚が話したいって思ったときでいいと思うよ。無理しなくていい」
「……ありがと」
「うん」
彩は、卵焼きを口に入れて、にこにこしていた。
わたしは、箸を持ったまま、少しだけ、考えた。
話したい。
でも、話したら、お姉ちゃんが、消えちゃいそうで。
そんなわけ、ないのに。




