第三章 エピソード5
「やぁ、ごめんね。自分から誘っておいて、遅れてしまうなんて面目ない」
やってきた米倉は、よれよれの背広に身を包んでいた。
「いえ、僕は全然構いませんけど、先生の方こそ、こんなに早く学校を抜け出してきても大丈夫なのですか?」
米倉が見るからに疲れた表情を浮かべていたので、将司は思わず心配になった。
「学校ってところは、いろいろあるからね。たまには、早く帰っても、誰も文句は言わんだろ」
米倉の言った『いろいろ』には、こないだのスピーカーの件も含まれているだろう。そんなことにまで気を配らないといけない元担任の先生に、将司は頭が下がる思いでいた。
気を利かせた店主が、待ちかねていたかのように、ビールを颯爽と運んできた。
「いゃぁ、先生には本当にお世話になりましたよ」
店主は、愛想笑いを見せながら言った。そう言えば、この店主の息子も、同級生だったことを、将司は思い出した。
「幸男君は、今はどちらに?」
「幸男なら、大学で東京に出たまま戻ってこないで……」
店主の言葉の先には、『困った奴です』と言う言葉が続くのだろうかと、将司は苦笑した。自分もその口の一人だったのだから……。それからしばらく、店主は息子の元担任と言葉を交わして、カウンターの中に戻って行った。
『乾杯』のグラスを交わしたあと、米倉は徐に言った。
「実はね、今日、将司君を呼んだのは、こないだのお礼をしたかったのもあるのだが、私のクラスにいたときのことを思い出してもらおうと思ってね」
米倉が、突然、意味ありげなことを言ったので、将司はぎょっとした。
「六年二組のことですか?」
「そうなんだよ。六年二組のことなんだけど、ちょっと困ったことがあってね。君に力を貸してもらえないかと思っているんだが……」
将司は、手をかけていたグラスを口に運ぶと、二口ほど続けて飲んだ。米倉の言う『困ったこと』とは、一体どういう話なのだろうか。
「僕にできることでしたら……」
米倉は、将司の返事を確かめると、わざと間を置いてから話し始めた。
「君に前になおしてもらった放送機器のことなんだけどね」
「あっ、それなら、あれから変な声は聞こえなくなったって、聞きましたけど」
「もちろん、君になおしてもらってからは、騒ぎは収まった。だから、君には感謝しているよ。ただね、あれから妙なことが起こるんだ」
「妙なこと?」
将司は、わざと、驚いた表情をして見せた。米倉の言おうとしている妙なことは、前にも聞いていたからだ。あのときは、話を聞いただけで、そのまま聞き流してしまっていたのだが……。
「誰かが、カセットテープを、昔使っていた方の機械に入れるんだよ。ほら、君が見つけてくれた古いスピーカーにつながっていたあの機械だよ」
「それなら、先生が見つけてカセットテープを元の場所に戻したとか、聞きましたけど」
「それなんだよ。私はあのことがあってからどうも気になってね、ときどき放送室を覗きに行くんだけど、いつ行っても、カセットテープが機械の中にセットされているんだ。子供たちのいたずらを疑ってみたんだが、どうもそうではないらしい。古いスピーカーにはもうつながっていないから、音が漏れる心配はないんだけど、それにしても気味が悪くてね」
米倉は、そこまで話したところで、クラスを口に近づけた。喉が渇いていたのか、半分近くを一気に飲み干した。
「念のために、そのカセットの中身を聞いてみたんだ。もしかしたら、何か手がかりが隠されているかも知れないと思ったからね。そしたら……」
「そしたら、どうしたんですか?」
「テープの中には、子供たちの声が入っていたんだ。給食の献立を読み上げたり、リクエスト曲の紹介をしたりする声だった。放送委員の子供たちが悪ふざけでやった、ただの録音だった。でもね、その声には聞き覚えがあったんだ。ずっと昔に聞いたことのある声、私は自慢じゃないけど、一度担任をした子供の顔と声だけは忘れないからね。だいぶ時間がかかったが、その声の主がわかった」
「誰なんですか。その声の主と僕とが、何か関係があるとでも言うんですか?」
将司は、いつしか身を乗り出すような格好になっていた。
「君がよく知っている人物で、今はうちの学校に勤めている人と言えばわかってもらえるかな」
それを聞いた瞬間、将司の目の前に、一人の女性の顔が浮かんだ。
「でも、なぜ?」
そう訊きながら、将司は、彼女なら、カセットテープに録音することができたと思った。それに、他の職員の目を盗んで、カセットテープを古い機械にセットすることさえ、たやすいことだろう。
「でも、一体何のために?」
将司は、心の中で、自問自答した。
「これには、何か、深い事情がありそうだから、今は上司として私が訊くよりも、同級生として君の方から訊いてもらう方がいいと思う。これが、そのカセットテープだ。君に預けるから、一度、君も聞いてみて欲しい」
そう言って、米倉は、あの何も書かれていない、白のカセットテープを手渡してきた。
話がそこまですすむのを見計らっていたかのように、店主が日本酒の入った徳利を持ってきた。お猪口が三つお盆の上に乗っていると言うことは、昔懐かしい話に自分もあやかりたいと言うことだろうか。店主を交えての会話は盛り上がった。運動会で、組み立て体操を成功させたときのこと、修学旅行先で子供が熱を出して四苦八苦したことなど、米倉は当時の思い出話を、昨日のことのように話していた。




