第3話 仕事ばかりで、そばにいてやれなかった父親の後悔
霧が、今日は濃かった。
湖の向こう岸が完全に見えなかった。蝶だけが霧の中を自由に飛んでいた。霧を知らないように、壁を知らないように。羽が白い靄に溶けては、また現れた。
僕は岸に立って、燕尾服の袖を引いた。手袋の縫い目の解れが、昨日より広がっていた。気づいていたけど、また直さなかった。直す気が、起きなかった。
気配が来たのは、そのときだった。
輪郭が、霧の奥からゆっくりと浮かび上がった。今日は、少し時間がかかった。濃すぎる霧が、かたちを許さないみたいに、何度も輪郭をほどいては、また結び直した。
ようやく定まったそれは、人のかたちだった。
中年の男の人だった。五十代の後半くらい。がっしりとした体つきに、くたびれた作業着。大きな手は、長い時間、何かを支え続けてきた重みを、そのまま残しているようだった。
目が開く。
彼は、まっすぐ僕を見る。怯えはなかった。ただ、深いところまで沈んだ疲れだけが、静かに残っていた。
「……ここは」
男の人が言った。
「あの世か」
「境界だよ」と僕は答えた。
「あの世と、この世の、あいだ」
「そうか」
それだけ言って、彼は湖を見た。
怒りも、取り乱しもなかった。ただ、受け入れてしまったみたいに、静かに。
――こういう人が、一番、難しい。
感情が表に出てこない人は、どこから触れればいいのか分からない。扉のない部屋みたいで、僕はいつも、見えない壁を手探りでなぞるみたいに言葉を選ぶ。
「急がなくていいよ」
僕は言った。
「ここは、待ってくれる場所だから」
「急いでも、仕方ないだろう」
男の人は静かに言った。
「もう、終わったんだから」
***
歩き出したのは、少しあとだった。
彼はあまり話さなかった。僕も、無理に言葉を差し込まなかった。
湖のほとりを、並んで歩く。蝶が一匹、男の人の手のそばをすり抜けた。
「子供が、いる」
ぽつり、と落ちた言葉は、水に沈む石みたいに重かった。
「そっか。……何人?」
「二人。上が娘で、下が息子」
「何歳くらい?」
「娘が十五。息子が十二」
少しの沈黙。
「まだ、小さいな」
彼は、自分に言い聞かせるみたいに言った。
「うん。小さいね」
「……俺がいなくなって、どうするんだろうな」
「心配してるんだね」
「心配しかない」
その声が、かすかに揺れた。
「心配しかないのに、俺は――」
言葉が途切れる。
僕は、その先を急がなかった。
「俺は、いなくなった」
静かな声だった。責めてもいないし、嘆いてもいない。ただ、動かせない事実を、そっと置くみたいな言い方だった。
その静けさが、かえって胸に残った。
「子供たちのこと、聞かせてくれる?」
彼は、少しだけ目を細めた。
「……娘はな、頑固なんだ」
言葉が、少しずつほどけていく。
「俺に似てる。言い出したら聞かない。でも、根は優しい。弟の面倒をよく見てた」
「お父さんに似てるんだね」
「似てほしくなかったけどな」
ほんの少しだけ、口元が緩んだ。
「頑固なのは、損をする」
「息子さんは?」
「あいつは母親似だ。穏やかで……のんびりしてて」
彼の視線が、どこか遠くへ向いた。
「でも、絵が上手くてな。写生大会で賞を取ったことがあって」
「嬉しかった?」
「……ああ」
小さく息を吐く。
「嬉しかった」
その一言だけが、やけにあたたかかった。
***
そのとき、水面が揺れた。
揺れるはずのない湖が、わずかに波紋をつくる。
僕は足を止めた。
男の人の顔が映っていた。その隣に、もう二つ。小さな影。一つは少し高く、もう一つは低い。ぼんやりと、それでも確かに。
――子供たち。
彼は気づいていない。ただ、見上げている。何も言わずに、そこにいる。
瞬きをした。消えていた。
水面はまた、何もなかったように静まり返る。
胸の奥で、何かがかすかに痛んだ。
母親のことを思い出した。思い出したくなかったのに。
顔はもう曖昧で、声もほとんど残っていない。それでも、手の感触だけは消えなかった。小さくて、不器用で、でも確かに優しかった手。
――あの夜。
僕が湖に身を投げた夜、あの人はどこにいたんだろう。
考えたことがなかった。考えないようにしていた。
でも今、ふと浮かぶ。
――あの人も、心配したんだろうか。
袖を強く握る。解れた縫い目が、指に食い込んだ。
***
「後悔してる」
男の人が言った。
静かに落ちたその言葉は、遅れて重さを持った。
「……もっと、家にいればよかった」
ゆっくり、絞り出すように。
「仕事ばかりで、いてやれなかった」
「子供たちと、一緒にいたかったんだね」
「ああ」
低く、沈む声。
「でも、金も要った。食わせていかなきゃいけなかった。それも、本当だ」
「どっちも、本当だね」
「……そうだな」
彼が、静かに息を吐いた。少しだけ、肩の力が抜けた気がした。
「子供たちの顔、見たい?」と僕は言った。
「湖に映せるよ」
彼が、ゆっくりとこちらを見た。
「見られるのか」
「うん」
ほんのわずかな間。迷いのようなものが、その目に揺れた気がした。
それから、静かに頷いた。
***
僕は湖の前にしゃがみこんだ。水面に手をかざす。
触れてはいないのに、温度だけが伝わる気がした。
ゆっくりと、念じる。
水面が、呼吸をするみたいに揺れた。
白い靄がほどけていく。
そこに、像が浮かんだ。
居間だった。夜のやわらかい光。
少女が、ソファに座っていた。膝を抱えて、動かないまま。
その隣に、小さな少年が寄り添っていた。逃げるみたいにではなく、寄りかかるみたいに。
二人とも、何も言わない。テレビもついていない。
ただ、そこにいる。寄り添っている。
「……いるんだな」
男の人の声が、かすかに震えた。
「ちゃんと、いるんだな」
「いるね」
僕は静かに言った。
「二人で、いる」
「頑固な娘が……」
彼が息を呑む。
「弟の肩、抱いてる」
「うん」
「あいつ、そういうことしないんだよ」
言葉の途中で、少しだけ詰まった。
「照れくさがって……」
その続きは、言葉にならなかった。
像は、少しずつ薄れていった。輪郭がほどけて、光に溶けていく。
やがて、水面は元の静けさを取り戻した。
男の人は、しばらく動かなかった。さっきまで、そこにあった景色を見つめるように。
「見せてくれて、ありがとう」
その声は、さっきよりも少しだけ軽くなっていた。
「うん」
***
「子供たちに」
彼が言った。
「会えないか」
「……会えないよ」
僕は答えた。嘘は、つかなかった。
「ここからは、向こうには戻れない」
「そうか」
それだけだった。受け入れるまでの時間すら、必要なさそうだった。
「でも」
僕は続けた。
「どうするかは、選べる」
男の人が、静かにこちらを見る。
「霊になって、この世に戻ることができる」
言葉を、落とすように。
「湖に溶けて、彷徨う。触れられないし、声も届かないけど――」
「それでも」
彼が、重ねた。少しも迷いのない声だった。
「そばにいたい」
僕は、少しだけ息を止めた。
「蝶になることもできるよ」
それでも、もう一つの道を差し出す。
「あの世で、穏やかに過ごすこともできる」
彼は答えなかった。ただ、水面を見ていた。さっき、子供たちが映っていた場所を。
「……もう、決まってる」
やがて、そう言った。
「俺は、あいつらのそばにいる」
静かに、でも確かに。
「触れなくても、声が届かなくても」
少しだけ間があって。
「それでも、そばにいる」
***
僕は、一歩だけ近づいた。
彼は、目を閉じた。大きな体が、少しだけ力を抜く。
「別れの挨拶」
僕は小さく言った。
拒まなかった。
額に、そっと触れる。ほんの一瞬。触れたのかどうかも曖昧なほどの、短い時間。
言葉は、出さなかった。出さなくても、届く気がした。
***
湖のほとりまで、並んで歩いた。
水面が、また揺れる。今度は、さっきよりも大きく。波紋が、ゆっくりと広がっていく。
男の人の影が映る。その隣に、また二つの影が現れた。
今度は、彼も気づいた。目を細める。
「……いたんだな」
さっきよりも、柔らかい声だった。
「ちゃんと、いたんだな」
彼が、一歩踏み出した。
水面が、静かに割れる。音はなかった。ただ、形だけが崩れていく。
足から、腰へ。肩へ。ゆっくりと、溶けていく。
最後に、その大きな手が水面に触れて――
消えた。
「達者でいろよ」
溶けながら、声が残った。
「父ちゃんは、大丈夫だから」
波紋だけが残る。広がって、広がって。やがて、何もなかったみたいに、静かになった。
***
一人になった湖の上で、僕は波紋が消えるまで立っていた。
霊を選んだ魂を見送るのは、蝶を見送るより、少し長くかかった。消えるまでに時間がかかるから。でも、それだけじゃない。何かが、胸に引っかかるから。
この世に戻っても、触れられない。声も届かない。それでも、そばにいたいと男の人は言った。
母親のことを、思う。あの人は、いまどこで何をしているんだろう。
燕尾服の袖を握りしめた手を、ゆっくりと開いた。手袋の解れた縫い目が、掌に跡を残していた。
罰だと思っていた。ここにいることが。
でも男の人は、子供たちのそばにいるために、この世に戻った。
そばにいることが、罰なのか。まだ、わからない。
ただ、燕尾服が今日はいつもより重くて、僕はしばらく、その場から動けなかった。




