表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
自死した魂だけが辿り着く境界の湖で、僕は魂の番人として最後の願いを聞いている  作者: ひとひら


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/4

第2話 自ら死を選んだ少年の最期の願いは、母に「ごめん」と伝えることだった


 霧が、今日は低かった。


湖面すれすれを這うように広がって、蝶の影だけが霧の上に浮いていた。白、黄、薄い青。羽が霧を切るたびに、細い筋が走って、すぐに消えた。


僕は岸に立って、手袋の縫い目を確かめていた。

昨日気づいた解れが、少し広がっていた。引っ張ったら、もっと解れそうだった。


やめた。このままでいい、と思った。直す必要はない。どうせ誰も見ていないし、見られる必要もなかった。これは番人の制服だ。きれいである必要はない。ただ、着ていればいい。



気配が来たのは、そのときだった。


輪郭が、霧の奥からゆっくりと滲み出た。今日は、少しだけ早い。形が整うまでの時間が、いつもより短かった。


現れたのは、少年だった。十代の後半。僕と同じくらいの年頃に見えた。紺色の制服はわずかに乱れ、髪も整っていなかった。


目が開いた瞬間、彼は周囲を見回した。落ち着きのない視線が、やがて僕に触れる。


そのとき、気づいた。

彼は、泣いていた。

声はなかった。ただ、行き場を失ったみたいに、涙だけが静かに落ちていた。自分が泣いていることにも、まだ気づいていないようだった。


「……大丈夫だよ」


できるだけやわらかく、声を落とした。


「ここは、怖い場所じゃない」


少年は、泣いたまま僕を見た。まるで、言葉の意味をゆっくり確かめるみたいに。


「……怖くない、か」


掠れた声が、少し遅れて落ちてきた。


「なんで泣いてるんだろ、俺」


「……泣いていいよ」


僕は言った。


「気が済むまで」


少年は、そのまましばらく泣いていた。声はやっぱりなくて、ただ時間だけが静かに流れた。


僕は隣に立っていた。何も言わなかった。言葉が届かないときもある。ただ、そこにいることだけが、形になるときもある。


やがて涙が途切れて、少年は小さく息を吐いた。それから、少し遅れて「ごめん」と言った。


「謝らなくていいよ」


僕は首を振った。


「泣くことは、悪いことじゃないから」


「……誰かの前で泣いたの、久しぶりだった」


袖で目を拭いながら、少年は言った。


「ていうか、泣けたの、久しぶりだった」


「泣けなかったんだね」


僕は繰り返した。


「ずっと」


「……うん」


その一言は、湖の表面みたいに静かで、でもどこか深く沈んでいた。




***




歩き出したのは、少年の呼吸が落ち着いてからだった。湖のほとりを、並んで歩く。


蝶が一匹、彼の肩先をかすめていった。少年はそれを目で追ったけれど、何も言わなかった。


「……名前、聞いてもいい?」


少し間を置いて、彼が言った。


「冥」


僕は答える。


「……めいって、いうんだ」


「冥か」


小さく繰り返してから、彼は言った。


「俺、ハル」


「ハル」


僕も繰り返す。


「うん、覚えた」


ハルはしばらく黙って、湖を見ながら歩いた。水面が、白く光っている。


「俺、死んだんだよな」


「うん」


「そっか」


確認するみたいに言って、それきり口を閉じた。その「そっか」は、どこにも行き場がないまま、空気の中に溶けた。


「話せそうなら、でいい」


僕は言う。


「急がなくていいから。ここには時間がない」


「時間がない?」


少しだけ顔を上げる。


「うん。だから、ゆっくりでいい」


ハルは何かを探すみたいに、少し考えた。蝶が増えてきて、淡い影が水面に重なる。



「泣けなくなったのはさ」


やがて、ぽつりと落ちる。


「一年くらい前からかな」


「一年前から、泣けなくなったんだね」


「うん。なんか、感覚が薄くなってった」


言葉を選びながら、続ける。


「悲しいとか、つらいとか、そういうのが、どんどん遠くなってって」


「遠くなっていったんだね」


「遠くなったっていうか――」


少しだけ考えて、視線を落とす。


「水の中にいるみたいな感じ、かな。周りの声が聞こえるんだけど、くぐもってて。自分だけ、違う場所にいるみたいな」


「水の中にいるみたいだったんだね」


僕は繰り返す。


「周りと、少し隔てられてる感じ」


「そう」


ハルが、はじめてちゃんと僕を見た。


「なんかわかる? その感じ」


少しだけ考える。すぐに答えは出なかった。


「……わかると思う」


それでも、そう言った。


「僕も、似たような時期があったから」


「冥も、死んだの?」


「……うん」


「それから、ここに来たの?」


「うん。で、そのまま、ここにいる」


ハルは、少し黙った。それから、ぽつりと。


「大変だな」


僕は答えなかった。大変だと思ったことがなかったから。それより前に、それはそういうものだった。



***



少し歩いてから、僕は言った。


「学校、しんどかった?」


ハルの足が、ほんの少しだけ遅くなる。


「しんどかった」


静かに返ってくる。


「でも、なんて言えばいいかわからなくて。うまく言葉にできなくて」


「言葉にできなかったんだね」


「親に言おうとしたこともあって」


視線を落としたまま続ける。


「でも、なんか、言えなくて。心配かけたくなかったし、大げさだと思われたくなかったし」


「言えなかったんだね」


僕は言った。


「言いたかったのに」


「……言いたかったのかな」


ハルは少し考える。


「言いたかったのかもしれない。でも、もう、わかんなくて」


少しだけ、息を吸う。


「自分でも、つらいのかどうか、わかんなくなってたから」


「自分がつらいかどうかも、わからなくなってたんだね」


「うん」


静かな声で言う。


「それが一番、こわかったかもしれない」


間が落ちる。


「つらいってわかれば、助けを求められるじゃん。でも、わからなかったら、何も言えなくて」


「そうだね」


僕は頷く。


「わからないと、言葉が出てこないよね」


「うん」


ハルは足を止めた。水面を見つめる。

蝶の影が、静かに滑っていく。



「ここ、静かだな」


「うん」


「水の中にいるみたいって言ったけど」


少しだけ、言葉を選ぶ。


「ここは違う。静かなのに、ちゃんと聞こえる」


それから、ほんの少し間を置いて。


「冥の声、ちゃんと聞こえる」


僕は、何も返せなかった。



***



しばらく歩いたあと、ハルが言った。


「俺さ、蝶、好きだったんだよね」


「そうなんだ」


「小さい頃、捕まえようとして、全然捕まえられなくて」


少しだけ、笑う。


「でも、途中で思ったんだ。捕まえなくていいやって。見てるだけで、いいやって」


「見てるだけで、よかったんだね」


「うん」


ハルは蝶を目で追う。淡い光が、霧の中でゆっくり揺れている。


「きれいだな、ここの蝶」


「きれいだよ」


「これ、なに?」


少しだけ、声が近くなる。


「この蝶」


「魂だよ」


僕は言った。


「ここを渡った人たちの」


ハルが、息を呑む。


「みんな、蝶になるの?」


「なりたければ、なれる」


「なりたければ?」


「うん」


僕は頷く。


「どうするかは、自分で決められる」


ハルが、僕を見る。


「どういうこと?」


僕は湖に目を向けたまま、静かに言う。


「蝶になって、あの世に行くこともできる。そのまま、向こうで過ごすんだ」


「蝶のまま」


「うん。人間には戻らないけど、あの世にいられる」


「もう一つは?」


「霊になって、この世に戻ることもできる」


少しだけ間を置く。


「湖に溶けて、この世を彷徨う」


ハルは黙って聞いていた。


「どっちがいいとか、ないの?」


「ないよ」


僕は言う。


「どちらも、選んだ人がいる」


少しだけ間が落ちる。


「冥は、どっちがいいと思う?」


「それは――」


僕は言いかけて、やめた。


「僕には、言えない」


そして、続ける。


「でも、決める前に――誰か、会いたい人はいる?」


ハルの目が、わずかに揺れた。


「この湖に映せる。向こうの様子」


「見られるの?」


小さく、確かめるように。


「うん」


少しの沈黙のあと、ハルは頷いた。


「……母さんの顔、見たい」



***



僕は湖の前にしゃがむ。水面に手をかざす。

静かに、意識を落とす。


水が、わずかに揺れた。

白い靄がほどけるみたいに、像が浮かび上がる。

台所だった。夕方の光が、薄く差し込んでいる。

エプロンをつけた女性が、流し台の前に立っていた。

動いていなかった。水だけが、流れ続けていた。


ハルが息を呑む。


「母さん」


掠れた声が、落ちる。


「うん」


「泣いてる」


「うん」


肩が、小さく揺れていた。声は届かない。それでも、泣いていることだけは、はっきりわかった。

水の音だけが、続いていた。


「俺のことで、泣いてるんだよな」


「そうだと思う」


ハルは、少しだけ前に出た。


「……ごめん」


水面に向かって、言う。


「ごめんな、母さん」


像は、ゆっくりと薄れていった。光がほどけるみたいに、消えていく。



やがて、湖はまた、何も映さなくなった。



***



ハルはしばらく、そのまま立っていた。


「見せてくれて、ありがとう」


「うん」


少しの間。


それから、ハルが言った。


「……決めた」


声は、静かだった。


「蝶になる」


ゆっくりと、言葉を置く。


「この世には戻らない。でも、人間にも、まだなりたくない」


少しだけ、息を吐く。


「蝶のまま、しばらくいたい」


「……うん」


僕は頷く。


「それでいいよ」


「決めるの、早すぎた?」


「ううん」


首を振る。


「どうしたいかは、いつでも変えられる。でも――」


少しだけ間を置く。


「今、そう思ったなら、それでいい」


ハルは小さく頷いた。


「もう決めた」


視線を蝶に向けたまま言う。


「蝶を見てたら、わかった。母ちゃんの顔を見たら、わかった」



***



選択が決まる。

そのときだけ、少しだけ距離を詰める。


「別れの挨拶」


僕は言った。


「嫌なら、しなくていいけど」


ハルは少しだけ考えて、目を閉じた。


その額に、そっと触れる。ほんの一瞬。触れたかどうかも曖昧なほどの、短い時間。

言葉は、出さなかった。


光が、足元から立ち上がる。ゆっくりと、体を満たしていく。

膝まで届いたとき、ハルが目を開けた。


「……冥、ありがとう」


「うん」


それしか言えなかった。


「話、聞いてくれて」


少しだけ、笑う。


「ちゃんと聞いてもらえたの、久しぶりだった」


胸の奥で、何かが触れた。でも、それが何なのかは、わからなかった。


「泣けたのも、久しぶりだった」


光が、肩まで上がる。


「ここ来て、よかった」


輪郭が、少しずつほどけていく。



「またどこかで」



次の瞬間。

一匹の蝶が、水面から舞い上がった。やわらかな黄色だった。

理由はないのに、そう思った。

霧の奥へ、静かに溶けていった。



***



一人になった湖の上で、僕はしばらく立っていた。黄色い蝶が消えた方向を、ずっと目で追っていた。


「話を聞いてくれてありがとう」と、ハルは言った。

僕はただ、聞いていただけだった。それしかできないから。聞くこと以外に、ここでできることがないから。罰を受けている間は、せめてそれくらいしかできないから。


でも。

ちゃんと聞いてくれた、という言葉が、頭の中に残っていた。払いのけようとして、できなかった。


手袋の解れた縫い目を、指でなぞった。引っ張ったら、もっと解れそうだった。

今日は、引っ張らなかった。


僕はまた、霧の方を向いた。黒い燕尾服が、今日も静かに重かった。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ