第2話 自ら死を選んだ少年の最期の願いは、母に「ごめん」と伝えることだった
霧が、今日は低かった。
湖面すれすれを這うように広がって、蝶の影だけが霧の上に浮いていた。白、黄、薄い青。羽が霧を切るたびに、細い筋が走って、すぐに消えた。
僕は岸に立って、手袋の縫い目を確かめていた。
昨日気づいた解れが、少し広がっていた。引っ張ったら、もっと解れそうだった。
やめた。このままでいい、と思った。直す必要はない。どうせ誰も見ていないし、見られる必要もなかった。これは番人の制服だ。きれいである必要はない。ただ、着ていればいい。
気配が来たのは、そのときだった。
輪郭が、霧の奥からゆっくりと滲み出た。今日は、少しだけ早い。形が整うまでの時間が、いつもより短かった。
現れたのは、少年だった。十代の後半。僕と同じくらいの年頃に見えた。紺色の制服はわずかに乱れ、髪も整っていなかった。
目が開いた瞬間、彼は周囲を見回した。落ち着きのない視線が、やがて僕に触れる。
そのとき、気づいた。
彼は、泣いていた。
声はなかった。ただ、行き場を失ったみたいに、涙だけが静かに落ちていた。自分が泣いていることにも、まだ気づいていないようだった。
「……大丈夫だよ」
できるだけやわらかく、声を落とした。
「ここは、怖い場所じゃない」
少年は、泣いたまま僕を見た。まるで、言葉の意味をゆっくり確かめるみたいに。
「……怖くない、か」
掠れた声が、少し遅れて落ちてきた。
「なんで泣いてるんだろ、俺」
「……泣いていいよ」
僕は言った。
「気が済むまで」
少年は、そのまましばらく泣いていた。声はやっぱりなくて、ただ時間だけが静かに流れた。
僕は隣に立っていた。何も言わなかった。言葉が届かないときもある。ただ、そこにいることだけが、形になるときもある。
やがて涙が途切れて、少年は小さく息を吐いた。それから、少し遅れて「ごめん」と言った。
「謝らなくていいよ」
僕は首を振った。
「泣くことは、悪いことじゃないから」
「……誰かの前で泣いたの、久しぶりだった」
袖で目を拭いながら、少年は言った。
「ていうか、泣けたの、久しぶりだった」
「泣けなかったんだね」
僕は繰り返した。
「ずっと」
「……うん」
その一言は、湖の表面みたいに静かで、でもどこか深く沈んでいた。
***
歩き出したのは、少年の呼吸が落ち着いてからだった。湖のほとりを、並んで歩く。
蝶が一匹、彼の肩先をかすめていった。少年はそれを目で追ったけれど、何も言わなかった。
「……名前、聞いてもいい?」
少し間を置いて、彼が言った。
「冥」
僕は答える。
「……めいって、いうんだ」
「冥か」
小さく繰り返してから、彼は言った。
「俺、ハル」
「ハル」
僕も繰り返す。
「うん、覚えた」
ハルはしばらく黙って、湖を見ながら歩いた。水面が、白く光っている。
「俺、死んだんだよな」
「うん」
「そっか」
確認するみたいに言って、それきり口を閉じた。その「そっか」は、どこにも行き場がないまま、空気の中に溶けた。
「話せそうなら、でいい」
僕は言う。
「急がなくていいから。ここには時間がない」
「時間がない?」
少しだけ顔を上げる。
「うん。だから、ゆっくりでいい」
ハルは何かを探すみたいに、少し考えた。蝶が増えてきて、淡い影が水面に重なる。
「泣けなくなったのはさ」
やがて、ぽつりと落ちる。
「一年くらい前からかな」
「一年前から、泣けなくなったんだね」
「うん。なんか、感覚が薄くなってった」
言葉を選びながら、続ける。
「悲しいとか、つらいとか、そういうのが、どんどん遠くなってって」
「遠くなっていったんだね」
「遠くなったっていうか――」
少しだけ考えて、視線を落とす。
「水の中にいるみたいな感じ、かな。周りの声が聞こえるんだけど、くぐもってて。自分だけ、違う場所にいるみたいな」
「水の中にいるみたいだったんだね」
僕は繰り返す。
「周りと、少し隔てられてる感じ」
「そう」
ハルが、はじめてちゃんと僕を見た。
「なんかわかる? その感じ」
少しだけ考える。すぐに答えは出なかった。
「……わかると思う」
それでも、そう言った。
「僕も、似たような時期があったから」
「冥も、死んだの?」
「……うん」
「それから、ここに来たの?」
「うん。で、そのまま、ここにいる」
ハルは、少し黙った。それから、ぽつりと。
「大変だな」
僕は答えなかった。大変だと思ったことがなかったから。それより前に、それはそういうものだった。
***
少し歩いてから、僕は言った。
「学校、しんどかった?」
ハルの足が、ほんの少しだけ遅くなる。
「しんどかった」
静かに返ってくる。
「でも、なんて言えばいいかわからなくて。うまく言葉にできなくて」
「言葉にできなかったんだね」
「親に言おうとしたこともあって」
視線を落としたまま続ける。
「でも、なんか、言えなくて。心配かけたくなかったし、大げさだと思われたくなかったし」
「言えなかったんだね」
僕は言った。
「言いたかったのに」
「……言いたかったのかな」
ハルは少し考える。
「言いたかったのかもしれない。でも、もう、わかんなくて」
少しだけ、息を吸う。
「自分でも、つらいのかどうか、わかんなくなってたから」
「自分がつらいかどうかも、わからなくなってたんだね」
「うん」
静かな声で言う。
「それが一番、こわかったかもしれない」
間が落ちる。
「つらいってわかれば、助けを求められるじゃん。でも、わからなかったら、何も言えなくて」
「そうだね」
僕は頷く。
「わからないと、言葉が出てこないよね」
「うん」
ハルは足を止めた。水面を見つめる。
蝶の影が、静かに滑っていく。
「ここ、静かだな」
「うん」
「水の中にいるみたいって言ったけど」
少しだけ、言葉を選ぶ。
「ここは違う。静かなのに、ちゃんと聞こえる」
それから、ほんの少し間を置いて。
「冥の声、ちゃんと聞こえる」
僕は、何も返せなかった。
***
しばらく歩いたあと、ハルが言った。
「俺さ、蝶、好きだったんだよね」
「そうなんだ」
「小さい頃、捕まえようとして、全然捕まえられなくて」
少しだけ、笑う。
「でも、途中で思ったんだ。捕まえなくていいやって。見てるだけで、いいやって」
「見てるだけで、よかったんだね」
「うん」
ハルは蝶を目で追う。淡い光が、霧の中でゆっくり揺れている。
「きれいだな、ここの蝶」
「きれいだよ」
「これ、なに?」
少しだけ、声が近くなる。
「この蝶」
「魂だよ」
僕は言った。
「ここを渡った人たちの」
ハルが、息を呑む。
「みんな、蝶になるの?」
「なりたければ、なれる」
「なりたければ?」
「うん」
僕は頷く。
「どうするかは、自分で決められる」
ハルが、僕を見る。
「どういうこと?」
僕は湖に目を向けたまま、静かに言う。
「蝶になって、あの世に行くこともできる。そのまま、向こうで過ごすんだ」
「蝶のまま」
「うん。人間には戻らないけど、あの世にいられる」
「もう一つは?」
「霊になって、この世に戻ることもできる」
少しだけ間を置く。
「湖に溶けて、この世を彷徨う」
ハルは黙って聞いていた。
「どっちがいいとか、ないの?」
「ないよ」
僕は言う。
「どちらも、選んだ人がいる」
少しだけ間が落ちる。
「冥は、どっちがいいと思う?」
「それは――」
僕は言いかけて、やめた。
「僕には、言えない」
そして、続ける。
「でも、決める前に――誰か、会いたい人はいる?」
ハルの目が、わずかに揺れた。
「この湖に映せる。向こうの様子」
「見られるの?」
小さく、確かめるように。
「うん」
少しの沈黙のあと、ハルは頷いた。
「……母さんの顔、見たい」
***
僕は湖の前にしゃがむ。水面に手をかざす。
静かに、意識を落とす。
水が、わずかに揺れた。
白い靄がほどけるみたいに、像が浮かび上がる。
台所だった。夕方の光が、薄く差し込んでいる。
エプロンをつけた女性が、流し台の前に立っていた。
動いていなかった。水だけが、流れ続けていた。
ハルが息を呑む。
「母さん」
掠れた声が、落ちる。
「うん」
「泣いてる」
「うん」
肩が、小さく揺れていた。声は届かない。それでも、泣いていることだけは、はっきりわかった。
水の音だけが、続いていた。
「俺のことで、泣いてるんだよな」
「そうだと思う」
ハルは、少しだけ前に出た。
「……ごめん」
水面に向かって、言う。
「ごめんな、母さん」
像は、ゆっくりと薄れていった。光がほどけるみたいに、消えていく。
やがて、湖はまた、何も映さなくなった。
***
ハルはしばらく、そのまま立っていた。
「見せてくれて、ありがとう」
「うん」
少しの間。
それから、ハルが言った。
「……決めた」
声は、静かだった。
「蝶になる」
ゆっくりと、言葉を置く。
「この世には戻らない。でも、人間にも、まだなりたくない」
少しだけ、息を吐く。
「蝶のまま、しばらくいたい」
「……うん」
僕は頷く。
「それでいいよ」
「決めるの、早すぎた?」
「ううん」
首を振る。
「どうしたいかは、いつでも変えられる。でも――」
少しだけ間を置く。
「今、そう思ったなら、それでいい」
ハルは小さく頷いた。
「もう決めた」
視線を蝶に向けたまま言う。
「蝶を見てたら、わかった。母ちゃんの顔を見たら、わかった」
***
選択が決まる。
そのときだけ、少しだけ距離を詰める。
「別れの挨拶」
僕は言った。
「嫌なら、しなくていいけど」
ハルは少しだけ考えて、目を閉じた。
その額に、そっと触れる。ほんの一瞬。触れたかどうかも曖昧なほどの、短い時間。
言葉は、出さなかった。
光が、足元から立ち上がる。ゆっくりと、体を満たしていく。
膝まで届いたとき、ハルが目を開けた。
「……冥、ありがとう」
「うん」
それしか言えなかった。
「話、聞いてくれて」
少しだけ、笑う。
「ちゃんと聞いてもらえたの、久しぶりだった」
胸の奥で、何かが触れた。でも、それが何なのかは、わからなかった。
「泣けたのも、久しぶりだった」
光が、肩まで上がる。
「ここ来て、よかった」
輪郭が、少しずつほどけていく。
「またどこかで」
次の瞬間。
一匹の蝶が、水面から舞い上がった。やわらかな黄色だった。
理由はないのに、そう思った。
霧の奥へ、静かに溶けていった。
***
一人になった湖の上で、僕はしばらく立っていた。黄色い蝶が消えた方向を、ずっと目で追っていた。
「話を聞いてくれてありがとう」と、ハルは言った。
僕はただ、聞いていただけだった。それしかできないから。聞くこと以外に、ここでできることがないから。罰を受けている間は、せめてそれくらいしかできないから。
でも。
ちゃんと聞いてくれた、という言葉が、頭の中に残っていた。払いのけようとして、できなかった。
手袋の解れた縫い目を、指でなぞった。引っ張ったら、もっと解れそうだった。
今日は、引っ張らなかった。
僕はまた、霧の方を向いた。黒い燕尾服が、今日も静かに重かった。




