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自死した魂だけが辿り着く境界の湖で、僕は魂の番人として最後の願いを聞いている  作者: ひとひら


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第1話 境界の湖には、自ら死を選んだ魂だけが辿り着く


 湖は、いつも静かだった。


波がない。風がない。水面は磨かれた黒曜石みたいに、空をそのまま映していた。空といっても、青くはない。灰色でもない。ただ白く、奥行きのない白さが、どこまでも続いている。


僕はそのほとりに立って、蝶を見ていた。

黒い燕尾服が、風もないのに重い。首元まで閉じた白いシャツ、両手を覆う薄い手袋。


この場所に来た最初の日から、ずっとこの格好だった。

誰かに着せられたのか、気づいたらそうなっていたのか、もう覚えていない。それより前のことも、霧がかかったようにぼんやりとしている。


ただ、ここに来る前に自分が何をしたのかだけは、なんとなく分かっていた。詳しくは覚えていない。覚えていたくない、のかもしれない。


脱いでいいと思ったことは、一度もなかった。

これは番人の服だ。罰を受けている者の、制服。


一匹、また一匹。白と黄と、ときどき薄い青。羽が光を透かすたびに、水面に淡い影を落とす。きれいだと思ったことはない。ただそこにあるものとして、ずっと見てきただけだ。


どのくらい、ここにいるんだろう。

時間というものが、この場所にはない。朝もなく、夜もなく、ただ白い空と静かな湖と、蝶だけがある。僕が来る前からそうだったし、僕がいなくなった後もそうなのだと思う。



――気配を感じたのは、そのときだった。



霧の中から、輪郭が現れる。

いつもそうだ。まず形が滲み、次に色が宿り、最後に、目が開く。


今日来たのは、若い女の人だった。二十代のはじめくらい。黒髪が湿っていて、白いワンピースの裾が、風もないのに揺れている。


目が開いた瞬間、彼女は僕を見て、息を呑んだ。


――怯えていた。


無理もない。血の気のない肌、感情の抜け落ちた目。肩を超える紫の髪は、水の中にいるようにゆるやかに揺れていた。


この湖では季節も時間も流れない。生者の世界の風は届かず、死者の世界の闇もまだ届かない。

みんな、最初は怯える。それでいいと思っている。


「……怖くないよ」


僕は言った。声が、霧の中に溶けていくみたいに、やわらかくなるように。


「ここは、怖い場所じゃない。……ゆっくりしていていい」


彼女は、しばらく僕を見ていた。

僕という存在の輪郭を、そっとなぞるみたいに。近づいてもいいものか、まだ決めかねている目だった。


僕は動かない。急かさない。それだけが、ここで許されているやさしさだと思っている。


「……あなたは」


やっと、声が落ちてきた。


「だれ」


「冥っていうんだ」


小さく答える。名前も、本当のものは思い出せない。冥というのは、ここに来てから自分でそう呼ぶことにしただけだ。


「君を、湖の向こうへ連れていく役目……みたいなもの、かな」


「向こうって」


「転生する場所。……怖いところじゃないよ」


彼女の唇が、わずかに揺れた。転生という言葉が、まだ胸の奥に触れられないみたいに。


「……死んだの、あたし」


「うん……」


肯くとき、ほんの少しだけ、言葉が沈む。


「でも、終わりじゃないから」


歩き出すまでに、少し時間がかかった。その沈黙すら、ここではちゃんと意味を持っていた。


「ユイ」


彼女は言った。誰かに預けるみたいに、自分の名前を。


「ユイ」


僕は、壊さないように繰り返す。


「うん、覚えた。よろしくね」


それだけで、彼女の肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。





***





しばらく、何も言わずに歩いた。

水面は、白く、やわらかく光っていた。


蝶が一匹、僕たちの前を横切る。触れれば消えてしまいそうな光だった。


「……疲れてたんだよね、ずっと」


ユイが言った。こぼれてしまった、みたいな声で。


「疲れてたんだね」


僕は、そのまま返す。意味を足さずに、ただ受け取る。


「眠れなくて。毎日、眠れなくて」


「眠れない夜が、ずっと続いてたんだね」


「うん……」


彼女は、少しだけ目を見開いた。責められなかったことに、驚いているみたいに。


「怒らないの」


「怒らないよ」


「怒る理由がないから」


ユイは前を向いたまま、小さく息を吐いた。

歩幅が、ほんの少しだけゆるくなる。


「誰にも言えなかったんだ。……心配かけたくなくて」


「うん」


「迷惑かけたくなくて。だから全部、自分の中に入れてた」


「全部、一人で抱えてたんだね」


「……抱えてたっていうか」


声が、少しだけほどける。


「もう、どこにも入らなくなってたんだよね」


「……溢れてたのかもしれない」


「ずっと」


「溢れてたんだね」


僕は言う。水面に落ちる光をなぞるみたいに、静かに。



「……しんどかった」


ユイが立ち止まる。


涙が落ちていた。音もなく、ただ、ひとつずつ。


僕は隣に立つ。触れないまま、ただそこにいる。泣き終わるまで、それでいいと思った。





***





水面が、ユイの足元で揺れる。

僕は一瞬、足を止めた。


湖に映っていたのは――

ユイじゃなかった。


白く、薄い輪郭。誰かの部屋のような、見覚えのない光景。うつむいて座り込む誰かの背中が、水面の奥にたしかに映っていた。


瞬きをする。何もなかったみたいに、消えていた。


……この湖は、ときどき、こういうものを映す。


生きている誰かの、今を。

僕はまだ、それが何を意味するのか知らない。知ろうとしたことも、なかった。ただ、いつも見て見ぬふりをしてきた。


「……冥くんって」


ユイが、歩きながら言う。


「ずっとここにいるの?」


「うん」


「一人で?」


「一人で」


「さみしくない?」


少しだけ考える。その感覚が、まだ自分の中に残っているのかどうか。


「さみしいっていうより……慣れてる、かな」


「それって……さみしいってことじゃないの」


僕は答えなかった。たぶん、その通りだったから。





***





蝶が増えていく。湖の中央に近づくほど、光が濃くなる。


ユイが手を伸ばすと、一匹が指先に止まった。羽は、透けるような金色だった。


「これ、なに」


「魂だよ」


「ここを渡った人たちの」


ユイが息を呑む。


「みんな、こうなるの」


「なりたければ、なれる」

「どうするかは、自分で決められる」


「どういうこと?」


「蝶になって、あの世に行くこともできる」


「霊になって戻ることも」



ユイは、しばらく蝶を見つめていた。



「きれい」


そう言ってから、少しだけ迷う。


「でも、なんか――」


「残酷、って思う?」


「……うん」


「きれいなのに、切ない」


「そうだね」


僕は頷く。


「きれいなものって、だいたい、少しずつ失われていくから」


「……どうしたい? 決めるのは、いつでもいいよ。ここには、時間はないから」



ユイは、しばらく考えていた。



そして、


「蝶になる」


と、言った。


「この世には、もういいかな」


「……あっちで、少し休みたい」


「……うん。それでいいよ」




***




光が灯る前に、僕は一歩だけ近づく。


仕事だから。最初から、決まっていることだから。

それでも、少しだけ躊躇う。何度やっても、慣れない。


ユイの額に、そっと触れる。一瞬だけ。触れたかどうかも分からないくらいの、やわらかさで。


「……安らかに」


それしか、言えなかった。


「話、聞いてくれてありがとう」


ユイが言う。


僕は、何も返せない。いつもそうだ。ただそこにいただけなのに、言葉が見つからない。


「冥くんも、ここに来た人なの?」


「……うん」


「そっか」


ユイは、少しだけ笑った。泣きそうなまま、それでもちゃんと笑っていた。


「ここに、来てよかった」


次の瞬間、白い蝶が、一匹、静かに舞い上がった。





***





一人になった湖で、僕は立ち尽くす。


蝶は、また増えていた。どこからともなく、ひとつ、またひとつ。羽音もなく、ただ、静かに。


さっきの言葉だけが、残っている。


――来てよかった。

――ありがとう。


そのどちらも、僕には少しだけ、眩しすぎた。


罰だと思っていた。ここにいることが。

自死した魂だけを迎える仕事を与えられたのは、自分が同じことをしたからだと。お前にはわかるだろう、と誰かに言われた気がしていた。


礼を言われるたびに、意味がわからなかった。罰を受けている人間に、なぜ誰かが感謝するのか。


わからないまま、僕はまた、湖面に目を落とす。



湖は、いつも静かだった。波がない。風がない。ただ蝶だけが、何も知らないように、美しく飛んでいた。

けれど今日だけは、その静けさの奥に、僕の知らない何かが、たしかに揺れていた。




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