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自死した魂だけが辿り着く境界の湖で、僕は魂の番人として最後の願いを聞いている  作者: ひとひら


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第4話 紫の花の記憶がフラッシュバックした夜、僕は自分も裏切られていたことを思い出した


 今日は、蝶の動きが遅かった。


いつもより羽ばたきが緩やかで、水面すれすれを漂うように飛んでいた。風がないのに、どこかふわふわと、重力を忘れたように。僕はそれを目で追いながら、湖のほとりに立っていた。


燕尾服の胸元に、手を当てた。釦が、ちゃんと閉まっているか確かめた。首元まで、全部。閉まっていた。いつも通り。それを確認するのが、ここに来てからの習慣だった。乱れてはいけない。罰を受けている間は、きちんとしていなければならない。


でも今日は、確かめながら、少し迷った。なぜ確かめるのか、理由が、うまく出てこなかった。



気配が来たのは、そのときだった。

輪郭が、霧の奥から滲むように浮かび上がった。

今日は、ひどく小さく見えた。霧に溶け残った影みたいに、頼りなく。


少年だった。十五か、十六か。僕より少し幼い。

華奢な体に、紺色の制服。薄く紫がかった黒髪が、目元を隠していた。


目が開いた瞬間、彼は僕を見た。それから、すぐに逸らした。


――怯えとは、少し違う。


人の視線に触れること自体を、避けているみたいだった。


「怖くないよ」


僕は、できるだけ静かに言った。


「ここは、誰も怒らないから」


少年は何も言わなかった。視線だけが、僕と湖のあいだを行き来する。


「名前、聞いていい?」


少し、長い間。


霧の向こうで、何かがほどけるみたいな時間があって――


「……リク」


やっと、声が落ちた。


「リク」


僕は小さく繰り返した。


「冥っていう。よろしくね」


リクは、ほんのわずかに頷いた。



***



歩き出すまでに、時間がかかった。

リクはすぐには動かなかった。湖を見て、蝶を見て、ときどき僕を見て、また逸らす。何かを言いかけて、飲み込む。その繰り返し。

急かさなかった。ただ、隣に立っていた。



「……きれいだな」


やがて、ぽつりと零れた。蝶を見たままの声だった。


「うん」


僕は答えた。


「きれいだね」


「こんな場所、あるんだな」


「うん」


「……怖かった」


リクの声は、ひどく静かだった。


「死んだら、真っ暗になるって」


「真っ暗だと思ってたんだね」


「うん」


少しだけ、間があって。


「……だから、怖かった」


そのあとに、もう一つ落ちた。


「でも、怖くても、もう嫌だったから」


僕は何も足さなかった。ただ、その言葉が沈むのを待った。


「もう嫌だったんだね」


それだけ、返した。


「うん」



***



歩きながら、リクは少しずつ話した。


言葉は、どれも途切れがちで、きちんとした形にならないまま、こぼれていく。それでも、拾った。形のままじゃなくても、意味は残るから。


「クラスに……仲良かったやつがいて」


「そっか」


「小学校から、ずっと一緒で」


「うん」


「でも、中学入ってから……変わって」


その先の言葉は、少し硬くなった。


「俺のこと、みんなの前で、馬鹿にするようになって」


僕は黙って聞いた。


「最初は冗談だと思ってた」


ゆっくり、確かめるみたいに。


「でも、毎日で」


呼吸が、少し浅くなる。


「毎日、笑いながら……俺のこと――」


言葉が、途切れた。


「毎日だったんだね」


僕は、そっと繋いだ。


「ずっと、続いてたんだね」


「うん」


リクは俯いたまま、続けた。


「先生にも言えなくて。親にも言えなくて」


「言えなかったんだね」


「言ったら、もっとひどくなる気がして」


「うん」


「……言葉が、出てこなかった」


かすれた声だった。


「何が嫌か、うまく説明できなくて」


「説明できなかったんだね」


僕はゆっくり言った。


「でも、ちゃんと嫌だったんだよね」


リクが顔を上げた。一瞬だけ、まっすぐに目が合う。


「……うん」


小さく、でも確かに。


「ちゃんと、嫌だった」



***



そのとき。

頭の奥で、何かが軋んだ。低く、歪んだ音。金属が折れかけるみたいな。


足が止まる。

霧の奥に、色が滲んだ。

紫。不自然なほど、鮮やかな。


――知っている色だった。


胸の奥が、急に冷たくなる。


造花の紫。あの夜、抱えていたもの。誰かにもらったもの。

誰に。

思い出せないのに、感覚だけが残っている。



「……冥?」


リクの声で、現実に引き戻される。

紫は、もう消えていた。


「……ごめん」


自分の声が、少し遠かった。


「なんでもない」


リクは何も言わなかった。ただ、少しだけこちらを見た。



***



「一番嫌だったの、そこじゃない気がする」


リクがぽつりと言った。


「どういうこと?」


「馬鹿にされるのも嫌だったけど」


言葉を探す、静かな間。


「……裏切られたこと、かな」


その一言が、胸の奥に落ちた。


「ずっと仲良かったのに」


「信じてたのに」


「それが、一番こたえた」


――裏切られた。


その言葉が、内側で反響する。


紫の花を抱えて、水に沈んだ夜。何を信じて、何を失ったのか。輪郭だけが残っている。


「裏切られたんだね」


自分の声が、少し掠れていた。


「ずっと信じてた人に」


「うん」


リクは静かに頷いた。


「嫌いになれたら、楽だったのかもしれない」


小さく笑う。


「でも、なれなかった」


「好きだったから」

「友達だと思ってたから」


言葉が、少しだけ揺れる。


「それが、一番しんどかった」



***



霧の中に、また紫が浮かんだ。

今度は、はっきりと。花びらの形まで見える。ゆっくりと、回っている。


音が、強くなる。きしむような、裂けるような音。

その奥で、笑い声。知っているはずの声。思い出せないのに、逃げられない声。


手が震える。袖を強く握る。解れた糸が、指に食い込む。


――フラッシュバック。


わかっているのに、遠ざけられない。


「……冥、大丈夫?」


遠くから、呼ばれる。


「……うん」


答えるしかなかった。


「大丈夫」


その言葉だけが、空っぽに浮いた。



***



少しして。

リクが言った。


「冥も、しんどいことあったの?」


間があった。霧が、ゆっくり流れる。


「あったよ」


それだけを、選んだ。


「詳しくは……うまく言えないけど」


「言えなくていいよ」


すぐに返ってきた。やわらかく。


「無理に言わなくていい」


僕は、リクを見た。さっき、自分が渡した言葉が、戻ってきていた。

少しだけ、胸の奥がほどける。


「……ありがとう」


その言葉が出たことに、自分で少し驚いた。


リクは、小さく笑った。前髪の奥で、目がわずかにやわらぐ。


「俺さ」とリクは言った。


「ここ来て、少しだけ、軽くなった気がする」


「そっか」


「誰かに話したの、初めてだったから」


少し間を置いて、続けた。


「ちゃんと、聞いてくれる人に」


胸の奥で、何かが揺れた。形を持たないまま、水に触れたみたいに、静かに広がる感覚。


「話してくれて、よかった」と僕は言った。声は思ったより、やわらかく出た。


「リクが話してくれて、よかった」



***



少しの沈黙が落ちたあと、僕は言った。


「誰か、見たい人はいる? この湖に、映せるよ」


リクはすぐには答えなかった。蝶の影が、水面をかすめていくのを、ただ目で追っていた。


やがて、小さく首を振った。


「……いい」


声は、ひどく静かだった。


「見たら、たぶん、決められなくなる」


「……そっか」


僕は頷いた。


「わかった」


リクは、また湖を見た。蝶を見た。


「どうしたい?」と僕は聞いた。


「蝶になって、あの世へ行くこともできるし、霊になって、この世に戻ることもできる。決めるのは、いつでもいい。ここには、時間がないから」


リクは、しばらく何も言わなかった。


一匹の蝶が、ふいに彼の前髪をかすめた。触れたのかどうかもわからないほどの距離で、すり抜けていった。



「あの世に行く」とリクは言った。


その声は、もう揺れていなかった。


「蝶になる」


「決めたんだね」


「うん」


リクは、小さく頷いた。


「もう、この世には戻らない。でも――」


少しだけ、言葉を探してから。


「消えたいわけじゃ、なかったから」


「蝶のまま、しばらくいたい」


「うん」


僕は言った。


「それでいいよ」



***



選択が決まると、空気がわずかに変わった。音にならない何かが、そっとほどけるみたいに。


僕は一歩、リクに近づいた。

リクは僕を見た。


「別れの挨拶」と僕は言った。


「嫌だったら、しなくていいけど」


リクは少しだけ迷って、それから静かに目を閉じた。前髪が、かすかに揺れた。


その額に、そっと触れる。ほんの一瞬。触れたかどうかも、曖昧になるくらいの時間。

さよなら、という言葉は、やっぱり声にはならなかった。


リクの体が、淡く光りはじめた。足元から、ゆっくりと。水に溶ける光みたいに、静かに広がっていく。


膝のあたりまで光が満ちたとき、リクは目を開けて、僕を見た。


「冥も」と彼は言った。


その声は、不思議なくらい澄んでいた。


「楽になれるといいね」


返す言葉は、見つからなかった。


光は肩へと上がり、輪郭を少しずつ曖昧にしていった。

最後に、前髪がほどけるみたいに光に溶けて――


一匹の蝶が、水面から舞い上がった。


薄く、紫がかった羽。さっきまでそこにあった気配だけを残して。

霧の奥へと、静かに消えていく。

僕は、その姿が見えなくなるまで、目を離さなかった。



***



一人になった湖の上で、僕は長い間、立っていた。


胸の中に、紫の造花の感触が残っている。あの夜抱いていた造花の、人工的な冷たさが。


「裏切られたんだね」とリクに言った言葉が、自分に返ってきてくる。


僕も、誰かに裏切られたのだろうか。顔は思い出せない。でも感覚だけが、体の奥底に沈んでいる。信じていたものが崩れた夜の、あの湖の冷たさが。


見たら、決められなくなりそうだから、とリクは言った。だから、見なかった。その強さが、胸に刺さる。


燕尾服の釦に、手を当てる。確かめようとして、やめた。今日は、確かめなかった。


霧の向こうから、また気配がするまで、僕はそのまま立っていた。紫の蝶が消えた方向を、ずっと見ていた。




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