第8話 思い出の甘味
そうして、玲子が日々仕事のかたわら料理本の解読を進め始めた頃だ。
「うーん、若鶏のコンフィ……美味しそうだけれど、なんだかよく分からない食材もあるわね」
玲子は今日も首を傾げつつ、レシピを探していた。
一樹と会話をする機会は、食事の用意というわずかな時間しかない。
その間に、一樹が図書館に関心を寄せてくれるようなレシピはないかと考えているのだが、なかなか思い浮かばなかった。
「もしかして、和食の方が好みだったりするのかしら……それともまさか、四川料理のような刺激の強いものの方が良いのかしら……!?」
一人で考えてばかりいるとあれこれ迷走してしまう。
「それにこの、ふらんべっていうのもちょっとよく分からないわね。私、やっぱり間違えて読んでいるのかしら」
はぁとため息をついて、少し休憩しようかと空を仰ぐ。
一樹に聞いてみたいが、忙しい彼の邪魔にならないようにこんな遠回りなことをしているのだ。
窓からは涼しげな風が流れ込んでくるが、夏が近づいてきてじっとりと汗ばむような気温になってきた。
「氷菓子、というのも良いかしら……」
最後に甘味を食べたのはいつだったかと思い出す。
もしかすると、お店でそういったものを食べたのは一樹に連れられて入った広小路の喫茶店でのミルクコーヒーが最後だったかもしれない。
「甘味なら、ご近所の幸田さんにおすそ分けしてもらった甘納豆があったかしら。でもあれじゃあ、氷菓子にはならないわね」
最後に氷菓子を食べたのはいつだっただろうか。
カウチに背を預け、目を閉じて考える。
そうだ、ちょうど今のような暑い季節のことだった。
百貨店のレストランで、父が食べさせてくれたのだった。
母が亡くなってから日々寂しさに打ちひしがれている玲子を励ますために連れ出してくれたのだろう。
父は玲子に、今日はなんでも好きなものを頼めと言ってくれた。
玲子は少し迷ってからアイスクリームを頼むことにしたのだ。
ぴかぴかのグラスに盛り付けられたまあるくて白いそれは、冷たくて甘い不思議な味で一口食べてたいそう驚いた。
ちょこんと乗せられた真っ赤なさくらんぼも可愛らしくて、玲子は夢中で食べていた。
その翌日だった。父が消えたのは。
(あぁ……暑い……この時期はやっぱり、嫌になるわね)
これから本格的な夏が来る。
今から萎れていては仕事にならないだろうと、玲子は自身を奮い立たせようとする。
けれど少しだけ、あの夏のひとときに戻りたくて。
次に玲子が目を開けたのは、一樹の声に起こされてからだ。
「こんな場所でうたた寝をしては、日射病になるぞ」
「……っ!?」
ハッと目を開ける。
カウチで横たわっていたことに気づいて、勢いよく飛び上がれば、驚いた顔の一樹と目が合った。
その瞬間、玲子は自分が居眠りをしていたことに気づく。
「えっ、わっ、青崎様……!? 申し訳ございません!」
なんという失態か。
普段なら絶対しないようなありえない失敗に、玲子は真っ青になってひたすら謝る。
だが、一樹はどこか居心地悪そうにするだけで特に咎めたりはしなかった。
「別に、休憩ぐらいで僕は怒ったりしない。体調は大丈夫か? ずいぶんうなされていたようだったが」
「は、はい! 次からは気をつけます!」
うなされていたのは、眠る直前に過去のことを思い出したからだろう。
しかし、ずいぶん時間が経ったのかと思いきや、外はまだ明るいままだ。
こんな時間から帰宅なんて珍しいと思いきや、一樹の方から説明してくれた。
「忘れ物を取りに来ただけだ。電報を打とうかと思ったが……そもそもきみに書斎へ立ち入らせたことがないから、難しいだろうと思って」
気まずそうに一樹はそう言ってから、視線をテーブルに広げられたままの辞書と料理本に移す。
帳面には玲子が乱雑に書き記した走り書きが。
素人なりに洋書を解読しようとしていたのが丸わかりだ。
「あの」
「どうした」
「ふらんべ、って……なんですか?」
一樹は唐突な玲子の質問に、目を丸くしてぽかんとする。
「…………は?」
いきなりそんなことを聞かれるとは思わなかったのだろう。
(やっ、やってしまった……!)
咄嗟について出てしまったが、あまりに脈絡が無さすぎた。
もはや玲子の顔は真っ青を通り越して白くなりそうだったが、一樹は料理本を見てすぐに察したようだ。
「急にどうしたのかと思ったら……料理人にでもなるつもりか? フランベは慣れないうちはやめておいた方がいい。きみが火傷をしたら大変だ」
「そっ、そんなに大掛かりな技なのですか!?」
「アルコールを火で飛ばすから、短い間だけ燃え上がるんだ。見慣れないとびっくりするだろうから、あまりおすすめしない」
玲子には全く想像がつかなかった。
(燃え上がる……って、そんなことをしたら焦げてしまわないかしら!?)
玲子の頭の中には火に包まれる鍋という絵面しか浮かばなかった。
わたわたと慌てる玲子を前にして、一樹は小さく笑みを零した。
「凝ったものばかり用意しなくてもいいんだぞ?」
(今、笑って……)
いつものしかめ面とは違い、思わず破顔したというような自然な笑顔だった。
「差し出がましい真似をしてすみません。ただ、青崎様に、少しでも肩の力を抜いていただければと思いまして……」
「別に、肩に力なんて入れてないが……他人のために無為な苦労を背負うぐらいなら、最初からしない方がいい。もっと自分のために時間を使いなさい」
「自分のためです。青崎様に喜んでいただきたいという、私の自己満足のためですから」
玲子が言い返せば、一樹は少し呆れたように引き下がった。
一樹に言われなくても、玲子は自分のために時間を使ってばかりだ。
「確かに、それもそうか……。まあ、好きにするといい。僕に手間がかからないのなら、きみが何をしようが構わないさ」
また元の仏頂面に戻ってしまったが、一樹の笑顔をようやく見ることができた。
「青崎様は、やっぱり洋食の方がお好きですか?」
「どちらでもない。まあ、菓子は日本のものの方が好きだが……きみが作る料理は美味いから、どんなものでもありがたいさ」
お世話ではなく、ごく自然にさらりと一樹はそう言ってくれた。
「ありがたいお言葉です。昔お世話になっていたところで、たくさんお料理を習う経験があったものですから」
玲子は照れ隠しのようにはにかんだ。
「今晩は、何をお召し上がりになりたいですか?」
「なんでもいい」
「そんなこと言って、私がふらんべしたらどうするんですか」
「……じゃあ、なにか冷たいものをひと品くれ」
一樹はしばし迷ってからそれだけ言うと、すたすたと去っていく。
「はい、かしこまりました!」
玲子は一樹を見送るべく、その後を追いかけていった。
やっぱり一樹は素直じゃないだけで優しい人だ。
玲子の良いところを見つけて褒めてくれるし、自分のために時間を使えと言ってくれる。
そんな一樹だからこそ、玲子も恩を返したいとあれこれ手を尽くしたくなるのだ。
(冷たいものなら……やっぱり、決まってるわよね!)




