第7話 言葉に出せない感情
昨晩出された料理はどれも、味に覚えがあるものだった。
出勤途中、一樹はぼんやりと過去を思い出す。
仏蘭西料理を元としているが、日本人の口に合うように独自の配合に変えたもの。
例えば、砂糖を加えて甘口にしたり、逆に醤油や味噌といった馴染みのある調味料を加えたり。
グラタンには味噌が使われていたから味にコクが出ていたし、鶏肉の照り焼きはおそらくマスタードを使ったレシピを改良したものだ。
昔、小さい子どもでも食べられるようにと試行錯誤した結果別物になってしまった、と祖母が笑っていたのを覚えている。
いつもの味付けとちょっと一味違っていいんじゃないか、と祖父も笑顔で嬉しそうにしていた。
祖父はよく海外の調味料だとか野菜だとかを貰って帰ってくることが多かったから、これを使ってくれとよく無茶ぶりをしていて、祖母は頭を悩ませながらもうきうきと試行錯誤していた。
そう考えてから、忘れたフリをしながらも今でも過去を鮮明に覚えていることに一樹は気付く。
(しかし、一体どこで見つけたんだ……?)
市販の料理本には載っていないレシピのはずだ。
その証拠に、文哉も凝った料理を作るんだねと喜んでいた。
わざわざ葡萄酒に合う洋食を用意してくれたのは聞かずとも察した。
祖父母が亡くなってからというもの、めっきり使われなくなった物寂しい台所が、きびきびと仕事をしている玲子の姿があることで、一気に彩りを取り戻したかのよう。
それに、台所だけではない。
司書、と文哉が言っていたように彼女がいることであの図書館が息を吹き返したように輝き出した。
あんなに冷たい態度を取ってしまったのに、玲子はひたむきに明るいまま笑顔で働き続けてくれている。
幼稚な態度を取ってしまったのは後悔しているが、まさか、あの栞を見つけられるとは一樹は想像もしていなかったのだ。
もうずいぶん昔に眠らせたままで、どこにあるのか一樹自身も忘れてしまっていた。
(どうして彼女はあれほどこだわるんだ?)
料理本が欲しいのなら頼めば、一樹はそれぐらいの金は出す。
わざわざあの図書館から探し出したということは、玲子が未だ一樹の思い出とやらにこだわっている証拠だった。
(余計なお節介、なんて言ってしまったが……彼女のそういう勇敢な性格を気に入ったのは自分自身だろうに)
矛盾した思考に自嘲する。
あの時、横柄な態度の店主に果敢にも立ち向かった玲子の姿を見て感心したのは他でもない自分だ。
立場に囚われず公平な視線を持つ彼女なら、屋敷に招き入れても良いのではと思ったのも自分だ。
だから、玲子がこの屋敷について、一樹について契約を分かっていながら正面から向き合おうとしてくるのは、彼女がそういう性格だからとしか言いようがないと一樹は諦めようとする。
けれど今は、玲子のことを考えるたび一樹の心には言い表せない感情が現れているのだ。
「青崎くん! おはよう、どうしたんだい、そんなぼんやりした顔をして」
「おはようございます。いえ、昨日飲みすぎただけですよ」
「ははは、そりゃあ羨ましい限りじゃないか」
同僚に挨拶をされ、すぐさま笑顔を作る。
彼は自身にも身に覚えがあるのか、豪快に笑うと一樹の背を叩いた。
他愛もない世間話をしながら、思考を仕事のために切り替える。
それでも最後に、ふと、ステンドグラスを背に読書を嗜む彼女を想像してみた。
色とりどりの光を反射しながら、彼女の瞳は何を映すだろう。
若き司書の営む優雅な図書館、なんて謳い文句を考えたところでハッと我に返る。
(いかんな。本当に飲みすぎたようだ……)
ただの女中で、それ以上でもそれ以下でもない。
頭をよぎった考えを忘れるように、一樹はただ同僚の世間話に集中することにした。
今日はやけに暑い。夏はすぐそこまで来ているようだった。
***
「本当に、すごい数の辞書。青崎様は熱心に勉強なさっていたようね」
掃除を終えた玲子は、一面に分厚い辞書が詰め込まれた棚の前で思案する。
英語、仏蘭西語、阿蘭陀語、などなど。
玲子には縁のなかった文字たちが、この重たい辞書の中にぎっしりと詰め込まれている。
中身を覗いてみたくなり、手近にあった仏蘭西語の辞書を手に取ってみる。
「わあ……さっぱり分からないわ」
苦笑いしつついくつか眺めていると、鉛筆で書き込まれた箇所が目に付いた。
単語をぐるぐると丸で囲んだり、二重線を引いたり。
中には、落書きのような絵が書き込まれていたりする。単語の意味を絵で覚えようとしたのだろう。
「もしかして、学生時代の青崎様が書かれたのかしら」
一樹に干渉しない、という約束を思い出して反射的に閉じようとする。
けれど、一度目についてしまったものを見なかったことにするのは難しかった。
本人に問いただしているわけではないから干渉には値しないだろうと思いつつ、玲子は再び辞書をめくる。
「本当に、熱心に勉強されていたのね。素敵だわ……」
もし、自分が男に生まれていたら、裕福な家庭に生まれていたら、今頃一樹のように働けたのだろうか。
今どき流行りの職業婦人を目指したいわけではないが、学校への憧れだけはどうにもならない。
揃いの袴を履いてマガレイトに髪を結った女学生とすれ違う度、いまだに羨ましさを感じてしまう。
けれど、玲子は自分自身の経歴を恥じたことはない。
波乱万丈であれど自分なりに精一杯生き抜いた結果なのだから、何も後悔することなどないと割り切っていた。
「知識や経験を得るのは、今からだって遅くないわ。現に、昨日だって新しい洋食に挑戦できたじゃない!」
玲子は自身を鼓舞するようにそう言う。
時代は目まぐるしく変化していくように、過去に囚われる必要はない。
時々、思い出して懐かしむぐらいでちょうど良いのだ。
「そうだ、辞書があれば他の洋食の料理本も読めるんじゃないかしら!」
ハッと思い立ち、玲子は昨日探した本棚の場所に戻る。
辞書と料理本を同時に開き、帳面を用意する。
「きっとこれは……仏蘭西語ね! 多分!」
自信はないが時間はある。地道に片手間に進めていけば、いつか一樹に振る舞えるようになるだろう。
(そうしたらきっと、青崎様は『どうでもいい』なんて考えを改めてくれるきっかけになれるかも……)
昨日の文哉との会話からして、一樹自身にも少なからず心境の変化があったのは間違いない。
拾ってもらった恩を返すことができれば――――玲子はその一心だった。




