第6話 特別なレシピ
「やあ、早かったじゃないか。市電の遅延具合からしてもうちょっと時間があると思ったんだが」
文哉はまるで一樹の反応を予想していたかのように平然としていた。
「彼女に余計なことを言ってないだろうな」
「何もしてないよ。ちょっと案内を頼んだだけじゃないか」
「案内なんて必要ないくらい来ているだろうが」
一樹の抗議を無視して、文哉はゆったりした動作で棚に歌集を戻す。
「ええと……お帰りなさいませ」
ひとまず玲子が声をかけたことで、一樹は少し冷静になったようだ。
「騒がせてすまない。文哉の言うことは全て聞き流しておいてくれ」
一樹がきっぱりそう言うと、横から文哉が口を挟む。
「ひどいな、新入りさんと仲良くしたかっただけなのに。君が長いこと放置していたここをずいぶん綺麗にしてくれたみたいで感動したよ」
「適当なことを言うな」
一樹と文哉はずいぶん親しげな様子だった。
仕事仲間というより、古くからの友人のようにも思える。
いつからの友人なのだろうか。
二人は軽口を叩き合いながら、食堂へと向かう。
二人の様子を気にしつつ、玲子もすぐに晩酌の用意に取り掛かることにした。
「こないだ出来た講堂がなかなか広くて使い勝手がいいものだから、よければシュトラウス卿の講演会をこっちの地方でもやって貰えないかと思って」
芳醇な香りの葡萄酒が注がれたグラスを片手に、文哉と一樹は談笑する。
いつも一樹だけでがらんとしていた食堂が、途端に賑わいを得たようだった。
玲子は作りたての食事を運びつつ、二人の会話を小耳に挟む。
「では、今度尋ねておこう。卿からも地方を巡りたいとの希望があったから、おそらくは上手く運ぶだろう。しかし、きみのところの生徒もなかなか熱心だな」
「学長閣下の教育の賜物だよ。君もあの人の手腕はよく知ってるだろ。そういえば、近頃は同級生の集まりもしていないし、今度どこかで宴会でもしようじゃないか。ちょうど、野倉くんが洋行から帰ってきたそうなんだよ」
「そうか。もうそんな時期だったか」
二人は学友らしく、学生時代の思い出の話なども時々口にしていた。
文哉とは仕事での付き合いもありつつ、ここでは親しい友人同士のように振舞っている。
玲子は学校に通った経験がないため、二人の様子を見るとなんだか羨ましくも思えてきた。
最初から友達が来ると言ってくれれば良いのに、なんて小さく呟きつつ、オーブンから焼きたてのグラタンを取り出す。
湯気と共にバターの香ばしい匂いがふわりと広がる。
表面は良い焼き加減で、レシピ通りに成功したようだ。
まだ熱いのでもう少し待ってから、先に小鉢を運ぶ。
「ま、それはおいおい決めるとしてだ。急に図書館に手を付け初めて一体どういう心境の変化なんだい?」
「別に……ただ、人手が足りないから彼女に仕事を任せてみただけだ。家の掃除を女中に頼むのが、そんなに変か?」
「だってねぇ、君。あれ以来ずっと触れないようにしてだだろ。関東で震災があった時も、程々に整理しろって忠告してやったのにずっと無視してたぐらいじゃないか」
ちょうど話題が自分のことに移ったようで、少しどきりとしつつも平静を装う。
「どうぞ、お召し上がりください」
小鉢はキャロットラペと蒸し鶏のサラダだ。
文哉が手土産に持ってきた蒸留酒も既に開けているようで、酒のすすみが早い。
一樹が屋敷で酒を飲むところを玲子は見たことがなかったので、一樹が酒飲みなのは少し意外だった。
「ん、これ美味いな! 玲子ちゃんは料理上手なんだねぇ」
「お口にあったようで何よりです」
文哉は大袈裟なまでに褒めてくれるが、初めて作ったのでそう言ってもらえて安心した。
干しぶどうを混ぜ合わせると書かれていた通りに従ったのだが、玲子には味の想像がつかず、味見するまで半信半疑で作っているぐらいだった。
この調子でグラタンも、と思ったのだが。
「きみ、このレシピはどこで…………」
「え?」
ふと、一樹が何か呟いた。
あまりに小さな声だったので玲子の耳には届かず聞き返したのだが、一樹は首を横に振るだけだった。
「いや、なんでもない」
そう言いつつも、どこか心ここに在らずといったような様子に見える。
もしや、口に合わなかったのだろうか。
だが一樹の箸は止まっているわけではなく、むしろ噛み締めるようにじっくり味わっているようにも見える。
どうかしたのかと引っかかりを覚えつつも、玲子はまた厨房に戻っていった。
「なんだい、急に辛気臭い顔して」
「別に、そんなんじゃ……」
文哉は目ざとく一樹の変化を察知し、探ろうとする。
一樹はふいと顔を逸らしてなんでもないように振舞っているが、文哉にはお見通しだった。
「玲子ちゃんがそんなに気になるか」
「……どこで見つけたのか、古いレシピを持ち出したらしい。それだけだ」
「ほほう、なるほどなるほど」
文哉はわざとらしいまでに大きく頷いた。
古いレシピというものが何を指すのか、文哉には分かっていた。
「彼女がいると、この館が明るくなるね。まるで、昔のようだ」
「さあ、どうだろうな」
「急に新しい人を雇ってどうしたのかと思ったけれど、気に入るところがあったんだろう。何となく想像は付くが……せっかくの良縁は大切にしておけよ」
一樹は否定しなかった。
果敢にも横暴な店主に立ち向かう意思の強い姿を見て、彼女にならば屋敷を任せても良いのではと思ったのは確かだ。
それに、一樹の顔色ばかりうかがうようなことはなく、何度も正面から向き合ってくるような実直さは嫌いではない。
嫌いではないからこそ、眩しくて目を逸らしたい。
「あれからもう何年経ったと思っている。彼女の存在は、次に進む良いきっかけになるんじゃないか」
「なぜきみに言われなきゃならん。どいつもこいつも、余計なお世話だ」
一樹の抱える矛盾を見透かしたように、文哉はただグラスの中の赤い液体を揺らした。
「しかし……平郷か。どこかで聞いたような名前だが……」
文哉は少し考え込んでから、グラスをあおると、思い出したかのように先程の話を続けた。




