第5話 司書の乙女
翌朝、現れた一樹は少し気まずそうな様子だった。
「その……昨夜は悪かった」
朝食の膳を置いた玲子を引き止め、一樹はそう謝りだしたのだ。
なんと言えば良いのか分からなかったのだろう。
不器用な人だ、と思いつつ玲子の顔は自然とほころぶ。
「いいえ、私も出過ぎた真似をいたしました。さあ、温かいうちに召し上がってくださいな」
「……ああ」
玲子が怒っているのか気にしていたのだろうか。
何となくよそよそしい一樹に構わず、玲子は笑顔で促す。
今日は茄子の味噌汁に白米、いんげん豆の胡麻和えとオムレツ。
そろそろ食事の用意も一人でこなすのに慣れてきた頃だ。
味噌汁に手をつけつつ、一樹はおもむろに話を切り出した。
「急な話ですまないが、今日来客があるかもしれない」
「今日ですか? いつ頃でしょう」
「夕方だ。仕事の関係の者が一人、男だが変わり者でな。ただ、今日は少し遠方に用があって帰宅が遅れるかもしれない。もし僕が帰ってこなくとも、彼は酒好きだから台所にある酒を何でも出してやれ」
「はい、かしこまりました」
玲子がこの家に来てから初めての来客だ。
仕事の関係と言っていたが、玲子は一樹の通訳官としての職務をあまり知らないのでどのような人が来るのか想像がつかない。
お酒を出すのなら、事前にいくつかつまみを用意しておくのが良いということぐらいか。
(洋酒もあったし、洋風のおつまみなら喜んでくださるかしら?)
頭の中からレシピを引っ張り出して色々と考え始める。
今日の買い出しで材料も見繕わなければならない。
急な話だと一樹は謝っていたが、玲子は忙しく動き回るのは嫌いではなく、むしろ働いている時が一番生き生きしていると感じているぐらいなのだからちょうど良かった。
それから、玲子は一樹を見送ったあと、いつも通りに掃除と洗濯を終える。
その後、玲子は屋敷の中の書籍をいくつかめくっていた。
「やっぱり、洋食のレシピがあったわ!」
以前掃除していた際に料理本がいくつかあったのが気になっていたのだ。
もしかすると、一樹の祖母のものかもしれない。
何かよい手がかりになるかと思い心に留めておいたのだが、早速今晩から役に立ってくれそうだ。
「キャロットラペ……にんじんの酢漬けのことね! わあ、なんだか名称だけでもおしゃれだわ」
台所にはオリーブ油もあった。一樹は頂き物だと言っていたが滅多に使う機会がなかったのか、封をされたままだった。
「なるほど、お芋とひき肉のグラタンも美味しそうね! そうだ、せっかくオーブンもあることだしバターとパン粉を使って仕上げましょうか」
西洋の文化が流入して久しいが、どれも貧乏生活を続けていた玲子にはなかなか縁のないものだった。
幸いこの屋敷にはオーブンが設置されており、いずれオーブンを使って洋食やお菓子作りをしたいと思っていたのだ。
一樹の元へ来てから自由気ままに仕事ができるので、料理は玲子にとってこれまで以上に楽しい時間となっていた。
「料理本は青崎様の趣味ではなさそうだし、やっぱりお祖母様やご家族のどなたかが揃えたものなのかしら。もしかすると、青崎様も食べたことのあるレシピがあるかも」
上手くいけば、一樹が心を開いてくれるきっかけになるかもしれない。
表向きは穏やかで紳士的だけど、心の内に踏み入ろうとすると途端に冷淡で刺々しい態度で突き放される。
普通はここで諦めるものだが、今朝のしょんぼりした一樹の様子から見て、彼は単に不器用な人なのだろうと玲子は感じていた。
――――――料理本を通して、一樹の心が少しでも晴れるような、そんなきっかけがつかめたら。
なんてことを考えながら、早速足りない材料を揃えるべく買い出しに向かうことにした。
***
「あら、もうこんな時間」
夕餉の支度に夢中になっていれば、ずいぶん時間が経っていることに気付く。
お出しするお酒は何が良いのだろうかと一通り探してみたが、飲酒の経験がない玲子にはピンと来ない。
「葡萄酒、麦酒、焼酎、これは……ウィスキー?」
お客様は一体どれがお好きなのだろうと悩んだその時。
ちょうどタイミング良く玄関のベルが鳴る。
玄関へと小走りで向かえば、そこに居たのは背の高い男性だった。
「こんばんは。おや、こんなに素敵なお嬢さんがいるとは知らなかったな。初めまして、箕作文哉です」
「ようこそお越しくださいました。旦那様よりお話はお伺いしております。どうぞお上がりください」
上品な紺の着物に羽織り、山高帽といった装いで、低い声音は気品を感じさせる。
「この館にはいつ頃から? ああ、少し来ないうちに知らない顔が増えたと思ってね」
「数週間ほど前からです。旦那様はもうすぐお帰りになると思いますので、どうぞおくつろぎください」
大広間に通してすぐに茶を持ってこようとしたが、文哉がそれを引き止めた。
「待って、お茶よりもお嬢さんと話がしたいな」
「私と話、ですか?」
驚く玲子に文哉は頷く。
教養のない自分には彼が満足するような会話は出来ないのではと思ったが、文哉は単に新顔の玲子が気になるだけのようだった。
「今は君が一人で働いているの? 一樹くんは気難しいところがあるから大変なんじゃない?」
「私一人ですが、大変なんてそんなことはありませんよ。こんなに素敵なお屋敷で雇っていただけて、私はとても果報者だと思っております」
謙虚だねぇ、と文哉は笑う。
それから、どういった経緯で雇われたのかだとか、日頃どうしているのかを話す。
商店街での買い物では近隣の主婦と談笑することはあるが、ここでは基本的に一人で過ごす時間が多いため、文哉との会話は楽しかった。
「そうだ。よければ、二階の図書館を案内してくれないかな? 前々からずっと気になっていたんだけど、なかなか機会がなくて」
「もちろんです。どうぞ、こちらへ」
螺旋階段を上がり、二階を案内する。
「こちらのお部屋に洋書を、向かいに古書を。その隣には、小説や雑誌などもございますよ」
「おや、ずいぶん綺麗なんだね。一樹くんは長いこと放置していると言っていたが、丁寧に手入れされているようだ」
「お褒めに預かり光栄です。どうぞ、旦那様がお帰りになるまでご自由にご覧になってください」
文哉はどのような本を嗜むのだろうと考えつつ、あれこれと勧めてみたが、文哉は本棚よりも玲子の方を見ていた。
「さながら君は、司書の乙女というところかな」
「司書、ですか?」
「そう。女中さんであり司書さんである、と言った具合かな。なんだか、館そのものが生き生きしているように思えるよ」
そう言いながら、文哉は無造作に棚へ手を伸ばす。
「おや、歌集だ。風流でいいんじゃないか」
司書とまで言ってもらえるとは思いもよらなかった。
文哉はのんびりと上機嫌そうに歌集を眺めている。
(司書……私が、司書……!)
褒めて貰えたことも嬉しかったが、なによりも、自分がこの場所に相応しい人間になれたような気がした。
ただこの図書館のために、そして一樹のために働いていただけだったが、少しずつ努力が実を結び始めているような、そんな予感がした。
じんわりと噛み締めていると、ふいにばたばたと足音が聞こえてくる。
「文哉! 勝手に二階に上がるなと何度言えば……!」
焦ったような、怒ったような。
勢いのままに、一樹が二階へ駆け込んできたのだった。




