第4話 朝顔の栞
それから、玲子は一樹の生活を支えるべく女中として青崎家で働きはじめた。
通いではなく女中部屋に住み込ませてもらい、掃除に洗濯など家事をこなしていく。
一樹は家を空けることが多く外泊する夜も多いが、だからと言って手を抜くことはない。
「確かにこれは、なかなか管理が大変ね……」
今日も本棚の整理をすべく、布巾とはたき片手に二階に上がる。
着物をたすき掛けにして、真新しい支給品の前掛けを身につけ、準備は万端だ。
忙しい一樹一人ではなかなか手が回らないことだろう。
薄らと埃がつもり、蔵書の順もばらばらになっていた。
「よし、今日はこの部屋を完璧に終わらせるわよ!」
意気込みながら窓を開けて換気をし、新鮮な空気と入れ替える。
踏み台を持ってきては棚の上まで綺麗に磨き上げ、木目の床は雑巾で隅の隅まで拭く。
せっかくの壁掛けのランプはあまり使われていないようで、埃で曇っていた硝子のシェード部分も忘れずに掃除する。
そうしてあらかたの埃を落とすと、次の本棚の中身に着手する。
上に積もった埃は落としたが、よくよく見れば本の上下がひっくり返っていたり、並び順がばらばらで揃っていない。
(中身を動かすなとは言われていないから、大丈夫よね?)
一度尋ねたことがあったが、一樹は興味なさげに好きにして良いとだけ言っていた。
せっかくの書物なのに、一樹はあまり触れていないようだ。
本は飾りではなく、目を通してこそのものだろう。
一樹がいつでも使えるように、環境を整えておくことも玲子の大切な仕事だ。
「これは……仏語、かしら? 私にはちょっと分からないわね……」
上下逆さまに突っ込まれていた本を手に取り、開いてみる。
中には外国の華やかな街並みが描かれた挿絵がぱっと目に付いた。
「まあ……とても綺麗……」
巴里のようだ。
もちろん、玲子は巴里に行ったことなどない。
ただ、噂に聞く流行の最先端が生まれる花の都というのは、こういった景色をしているのだろうと想像していた。
残念ながら玲子には読めないが、一部に日本語でのメモ書きがあることに気づいた。
『七月十六日、凱旋門の前にて』
もしかすると、これは誰かの日記でこの挿絵は本人が描いたものではないだろうか。
洋品店を扱う店で働いていても、玲子自身が海外についての見識を得る機会はほとんどなかった。
なかなか面白そうだと興味を惹かれ、玲子はまたさらにページをめくってみようとする。
「あら、何か……」
ページの間から何かがはらりと落ちてしまった。
かがんで拾い上げてみれば、それは押し花の栞だった。
色あせているが、青紫の朝顔だ。
誰かの手作りなのかもしれない。
裏面をひっくり返してみると、『一樹より』という文字が小さく端に記されていた。
「この文字、本の中と同じだわ」
よくよく見れば、今し方見た『凱旋門の前にて』という文言と筆跡が同じだと気づく。
そしてこの家において一樹という名が指し示す人物は一人しかいない。
(もしかして、青崎様がお祖父様に差し上げたものなのかしら)
窓から顔を出せば、庭には朝顔用の鉢植えと支柱がある。初夏の今ではまだ花は咲かないが、徐々に葉が伸び始めている頃だ。
もし一樹の祖父が存命の頃から朝顔を植えていたのなら、これは幼少期の一樹が作ったということになる。
『――――――――祖父から受け継いだ遺産なんだ。屋敷も本も、全て』
この館について聞いた時、一樹はどことなく気まずそうな顔をしていた。
一樹と祖父との関係がどのようなものであったのか、玲子は知らない。
それどころか、これらの書物がどういった経緯で一樹の手に渡ったのかも聞いたことがない。
いや、契約上聞くことはできないのだ。
(これは、干渉しないこと、に抵触するのかしら?)
しばし迷ってから、玲子はしおりを戻さずに本を棚に差し込んだ。
これはきっと、一樹の手に渡さねばならないものだと感じたからだ。
「こんなに丁寧に作ってあるんだもの。きっと、思い出の品なのではないかしら」
思い出の品、というのは玲子にとってある種の憧れが潜んでいる言葉だ。
玲子はかつての思い出を全て失ってきた。
家族で暮らしていた家も、当時身につけていたものも、母の遺品も、全て玲子の手元には残らなかった。
金目のものは売り払われ、屋敷はとっくになくなり、居場所を追われる度に所持品を減らしてきた。
だからだろうか。
きっと思い出が詰まっているであろうこの館を、一樹が無関心そうに振る舞う度に引っ掛かりを覚えてしまうのは。
だが、その日の晩。
帰宅した一樹は、玲子の差し出したものを見るなり不機嫌になってしまった。
「そんなもの、捨てておけ」
「なっ……!」
見たくもないというように眉を寄せて吐き捨てられ、玲子は狼狽える。
一樹がこんなにも怒っている姿を見るのは初めてだった。
不機嫌な店主や雇い主とは何度も対峙したことがあるが、初対面の時の人当たりの良い顔を知っているからこそなおさら気圧されそうになった。
玲子のいれた茶にも手をつけず、一樹は書斎へ行こうとしてしまう。
「ですが、これは青崎様の大切な品ではないのですか?」
急いで引き止めても、一樹の態度は変わらない。
いちだんと低い声で、いかにも苛立っていることが伝わる。
「覚えがないな。第一、僕の過去についてきみに話した記憶はないが、なぜそんなことを? 親切のつもりなら余計なお節介だ」
「そんなつもりは」
「違わないだろう。図書館のものは全部、僕にとってはどうでもいいんだ。いいか、最初に約束した通り僕にこれ以上干渉するな」
切れ長の瞳に睨まれ、凄みに気圧される。
これ以上取り合うつもりはないらしかった。
だが玲子は、これしきのことでへこたれるほどやわではない。
「そう言われましても、何が必要で何が不要なのか、私一人では決めかねます。私はこのお屋敷について、知らないことばかりですから」
干渉するなとは言われたが、同時に困ったことがあれば申し付けろとも言われた。
玲子がしているのは詮索ではなく相談だ。
そう眉間に皺を寄せて、ムッとした顔で突っぱねらなければならないような話はしていない。
言い返されると思っていなかったのか一樹は虚をつかれたようになっていたが、自分自身が玲子を引き抜いた時の場面を思い出したのだろう。
玲子はこうした場面で簡単に黙るような人間ではない。
だからこそ一樹は玲子を連れ出したのではなかったか。
「……悪かった。きみの言う通りだな。とにかくそれは捨てておけ。僕の名前があろうが、仕事に関係ないものは僕の許可は取らずに処分してくれ」
玲子に押し負けたように、一樹はバツが悪そうにしてそれだけ謝るとすぐに部屋へ戻っていった。
残された玲子は、冷めきったお茶を片付けようとする。
(そんなこと言ったら、ここにある本は全て青崎様の仕事に関係がないように見えるわ)
初対面の時の優しい笑みとはかけ離れたあの不機嫌な表情――――あれこそが、一樹の隠された素顔なのだと玲子は察した。
だが、一樹の言う通り本当に書物たちが不要なら、維持が大変なのだから最初から全て処分するはずだ。それでも、一樹はこの図書館の管理を玲子に任せた。
それが答えではなかろうかと玲子は思うのだ。
(お節介で結構よ。私は、私に任された仕事を全うしているだけなのだから)
突き放されれば突き放されるほど、一樹が隠している本心を知りたくなる。
また解雇されるかもしれない――――――そう思いつつも、一樹のことを知りたいという感情を、玲子は無視できなかった。




