第2話 再びの転職
店主の背後には、優雅に微笑む男性がいた。
笑顔ではあるものの、彼は店主の腕をがっちりと掴んで離そうとしない。
灰色の背広を着た落ち着いた雰囲気のある紳士的な青年だが、どうしてこんなところに。
それに、そもそもこの方は一体どなただろうかと玲子は驚いたのだが、店主には心当たりがあったようだ。
「こっ、これは青崎様!どうしてこちらに……」
血相を変えた店主が、作り笑いで取り繕うとするも、これだけ見られてしまえば意味は無い。
「先日の一件で、僕のお客様からの言伝がありまして、お邪魔しようと。そうしたら、ずいぶんと元気の良い声が聞こえてきたものですから、つい気になってしまいまして」
ははは、と男性は店主の腕を振りほどき笑うも、店主の顔は一面蒼白になっていた。
「勇敢なお嬢さんだ。こんなところに置いておくのは勿体ないぐらいだと、僕は思いますよ」
穏やかな声音であるものの、その口調はきっぱりと強いものだ。
店主はすっかり萎縮してしまったようで押し黙る。
「きみ、怖くなかったのかい……ああ、いや。そうではなかったようだね」
玲子の手の震えを見て、彼はそう訂正した。
震えを誤魔化すように、玲子は片手でもう一方の腕を押さえる。
「いえ。私はただ、この店を思って……出過ぎた真似をいたしました」
お客様の前ではしたないと、玲子はすぐに謝る。
「いいや、きみは間違っていない。大したものだよ。正しいことを言うのは、とても大変なことだから。きみは良い志を持っている」
男性の優しい言葉に、玲子は俯きかけていた顔を上げた。
偽善だとか生意気だとかではなく、ただ、玲子を肯定してくれた。そんなことを言ってもらったのは、初めてだった。
「この子、解雇するんですよね。だったら僕が預かっても文句は無いでしょう」
店主はちぎれんばかりに首を縦に振る。
さっきまであんなに解雇してやると言っていたのだから意義はないだろう。
「もちろんですとも。それと、箕作男爵の件は……」
「大したことではありません。こちらの手紙を届けに来たまでです。次回もまたこちらにお願いしたいと」
「本当ですか! いや、ありがたい。本当にありがたい」
「ただ……箕作男爵は心優しいことで有名ですから、あまり行き過ぎた行為は見過ごせないといいますか……」
暗に示すような言葉に、店主は顔を青くして震え上がる。
「も、もちろんですとも……! お恥ずかしいところをお見せしてすみません、今日は少し頭に血が上りすぎたようで」
それから、すぐに明美に向き直りバツの悪そうな顔で頭を下げる。
「……悪かった、俺が間違っていたと認めよう」
気位の高い店主にしては珍しい行為だった。
お得意様の前での失態に、さすがに冷静になったのだろう。
それからすぐに、店主は気まずそうに引っ込んでいく。
すっかり形勢逆転だ。
「青崎様、本当にありがとうございます……!」
明美も彼のことを知っているようだ。
もしや得意先だっただろうかと、玲子はこの数週間の記憶を探ろうとする。
しかし、店主がこんなにも顔色を変えるのならきっと記憶に残るはずだ。
「あなたは、一体……」
「まっ、待って玲子ちゃん」
この場で玲子だけが彼のことを知らないようだった。
明美が驚いたように慌てて玲子に教えようとするが、それより先に男性の方が口を開いた。
「僕は青崎一樹。ただのしがない……通訳官ですよ」
***
聞けば、樹は領事館に通訳官として勤めているそうで、関わりのある華族や実業家、政治関係者は数知れずという人物だそう。
洋品店には領事館で外国の要人に頼まれたものを自ら買い付けに来たのがきっかけだという。
店主は一樹が大口の客になると踏み、それはもう喜んでもてなしたそうだが、まさか洋品どころか従業員を買い付けるとは思いもよらなかったのだろう。
「あのう、それで、私に頼みたいお仕事というのは一体……」
広小路通の喫茶店で、玲子はすっかり萎縮していた。
こうした瀟洒な流行りの店なんて滅多に来ないので、流されるがままにミルクコーヒーを注文したが、とても喉を通る気がしない。
一樹は驚くほどの速さで話をまとめると、玲子を連れ出して近場の喫茶店へ向かった。
明美からは良かったわねと励まされたが、いくつもの場所を転々としてきた玲子でもさすがに驚きの方が勝っていた。
「そう緊張しなくていい。怪しい仕事なんて頼んだりしないさ。ちょうど、女中を探しているところだったんだよ」
「女中、ですか」
一樹の切れ長の瞳は理知的な印象を与え、喫茶店で珈琲片手にそうしていると、まるで学者のようにも見えた。
あまりじろじろ見るものではないと思いつつ、一樹に見惚れないように玲子は話に集中しようとする。
「僕の家の管理を任せたい。ただ、少し変わった建物だから、人を選ぶかもしれなくてね。きみのような実直で真面目なひとに任せたいと思っていたんだ」
「そうでしたか! では、喜んで引き受けさせていただきます!」
女中ということであれば、これまでと大して変わらない。
自信満々に頷いた玲子だったが、一樹は少し驚いていた。
「僕が言うのもなんだが、そう簡単に頷くものではないよ。契約する時は最後まで話を聞いた方がいい」
「し、失礼しました」
くすりと笑われる。
確かに一樹の言う通り、先走りすぎだったと反省した。
「やる気があるようで結構。それで、仕事についてなんだが……今から、来てもらえるだろうか。おそらく、実際に目で見た方が分かりやすい」
一樹は少し迷ってから、玲子に提案した。
目で見た方が、というとどんな複雑な建物なのかと玲子はごくりと息を飲む。
「なんというべきか……そう、図書館と言えば分かるだろうか」
「図書館、ですか?」
首を傾げる玲子に、一樹は頷く。
図書館なら、少し向こうの公園に市立のものが建てられたばかりだ。
家と言っていたのに、図書館とはどういうことだろう。
しかし、その疑問もすぐに解消された。
一樹に連れ出された先で玲子を出迎えたのは、めくるめく図書の世界だったからだ。




