第1話 問題の多い洋品店
「ねぇ見て。またやってるよ、あの子」
不意に聞こえてきた冷たい声に、玲子は雑巾を握っていた手を止める。
玲子の担当場所はとっくに終わらせたが、いつものように周りから床掃除を押し付けられて仕方なく働いていたところだった。
「本当、いつまでウチにいるのかしらね。あんな怪しい娘なんて、店の評判に関わるわ」
「前のところも追い出されたんでしょ。ロクな育ちをしてないから、床掃除程度しかできることがないのよ。かわいそうな子」
そう言いつつも、彼女たちは大口を開けて笑っている。
彼女たちは、この洋品店の奉公人。玲子の同僚だ。
玲子がここで働き始めたのはつい最近の事だが、素性の知れない娘だと言われて目の敵にされていた。
と言うよりも、仕事の不満や苛立ちを解消するために寄ってたかって玲子を標的にしているだけの状態で、玲子には何の非もない。
それどころか、店主が見ていないところでは手を抜いてばかりで、他人の分まで真面目に働いている玲子の方がこの店にとっていい奉公人なのは間違いない。
はたから見ればそれはすぐに分かる事。だが、彼女たちの言葉にもあるように、玲子の複雑な出自のおかげで、人々が玲子に向ける目は厳しいものだった。
(よし、こんなものかしらね……)
ひと仕事終えた玲子は、また働くためにすたすたと歩き去っていく。
(私が怪しいって思う理由は分かりるけれど、過去はどうしたって変えられないもの。前の職場は気に入らないからって解雇されて、その前は店が潰れて、その前の前もいきなり追い出されて。こっちだって好きでこんなことになってるんじゃないんだから)
一言言い返してやりたい気もあるが、こういう場合、新入りが歯向かえば余計に波風が立つだけだ。
今は耐えて、そのうちに時間が解決してくれるだろう。
玲子は、とある子爵家の生まれだった。
平郷という家名のその家は、華族でありながら貧乏で、玲子が幼いうちに没落してしまった。
それと同時に、父は姿を消してしまい、幼い玲子一人が残された。
母は既に亡くなっている。
没落したとはいえ華族だったため、玲子を引き取ってくれる家はあったが、向こうの家庭の問題や、玲子が不吉だから養女にはしたくないと言いがかりをつけられたりして、どの家でも上手く馴染めなかった。
そうして働ける年になって奉公に出されても、やはり玲子には不幸の神でも取り憑いているのか、どこで働いても長続きはしなかった。
(ここも、いつまでいられるか分からないけれど、今度こそは……)
落ち込んでいても、時間が過ぎていくだけだ。
玲子は前向きに頑張ろうと気合いを入れ直す。
が、その時だった。
きゃあっ、という女性の甲高い悲鳴が店の奥から聞こえてくる。
「今のは、明美さんの声じゃ……!」
明美さん、というのはこの店の中で唯一玲子を気にかけてくれている優しい同僚だ。
玲子は何かあったのでは、と急いでそちらへ向かう。
「旦那様、お許しください!」
店の裏では、明美が必死に店の旦那に謝っていた。
「うるさい! この屑が! お前なんぞ、今すぐ解雇してやっていいんだぞ!」
酷く興奮しているようで、唾を撒き散らしながら怒鳴っている。
まだ開店前だからいいものの、こんな声では確実に外まで聞こえてしまうだろう。
「お待ちください、旦那様。一体何があったのですか」
見てしまったからには黙って逃げかけることはできない。
「なんだ、お前も俺に逆らうのか! どいつもこいつも女のくせに男に楯突こうってのか!」
突然明美を庇うように出てきた玲子に、店主は驚きつつも玲子にまで悪態をつく。
唾が顔にかからなかっただけマシな返答だとしか言いようがない。
「明美さん、これは一体……」
「違うの、玲子ちゃん。ほら、前も言っていた帳簿の件で……」
玲子はその一言ですぐに察した。
前々から店の帳簿が間違っている箇所があり、おそらく店主の仕業であると皆が薄々察していた。
しかし店主はこの通り気性が荒いため、面と向かって指摘すれば面倒なことになる。
そこで明美は奥様に一言口添えをしてもらおうとしたようなのだが、失敗に終わったようだ。
「この店の店主である俺が間違えるものか! 旦那を疑うなんざとんだ恥知らずの奉公人だ!」
この店ではよくあることらしいが、あまりのその振る舞いに玲子は思わず腹が立って言い返してしまう。
「何をおっしゃるのですか。明美さんはただ間違いを指摘しただけで、何もおかしなことはしておりませんよ。むしろ、明美さんが指摘しなければ、誰も気づかないままだったではありませんか」
「な、なにィ! 見目がいいから雇ってやっただけのお前に、仕事の何が分かる! 余計な口出しをするなら、お前もクビだ! 出ていけ!」
「あなたの間違いを、明美さんや私に押し付けたってこの店は変わりませんよ!」
店は栄えていて、扱う品物も流行りの洋品。大通りに面した良い立地だというのに、ここで働く皆にはどこか覇気がない。
この店の空気が悪いのは、旦那の人を見下すこの態度に原因があるのではないかということは、ここに勤め始めてからすぐに察した。
「黙れ! この店は俺の店だぞ! 奉公人ごときが偉そうな口を聞くな! お前たちなんてな、いくらでも替えがきく使い捨てなんだよ!」
「使い捨てだなんて、そんな……! 私たちは日々この店のために一生懸命働いております。店主であるあなたがそれを否定するというのですか!」
「なんだと! ふざけるな!」
怒りのままに店主は拳を振り上げる。
玲子はとっさに明美を守るように前に立ちはだかったが、その拳が振り下ろされることはなかった。
「でしたら、その子はうちで預かりましょうか」




