第13話 仮面を被る
「もうすっかり夏本番ね……」
夕暮れ時、玲子は玄関先で打ち水をしていた。
ぱしゃりと水が跳ねて地面に染み込んでいく。
こうしておけば一樹が帰宅する頃まで涼しさはいくぶんか保つだろう。
夕餉の支度も済んでいる。
言いつけ通り周囲を警戒し、来客には用心し続けていた。
(本当に、あれはなんだったのかしら……)
幸いなことに、成嶋孝明は再び現れていない。
ずいぶんと失礼な人物だったが、なぜ二人が険悪なのか玲子はその理由を知らないままだ。
(図書館の中に成嶋家にまつわるものは見当たらなかった。親族と言っていたけれど、従兄弟なのかしら。それとも、伯父?)
一樹の家族構成は、亡き祖父母のことしか知らない。
一樹の父や母が誰なのか、どういった人物なのか、この屋敷にはそれらの痕跡がまるでないのだ。
それに、玲子自身既に天涯孤独の身であるため、父母のことはあまり軽率に聞けるものではなかった。
(まあ、もしかするとどこかで生きているかもしれないけれど、私の家族がいなくなったことには変わりはないわね)
かつての家族の姿を取り戻たいとは思っていない。
だが、その思い出の儚さは痛いほど知っている。
だからこそ、思い出を拒絶する一樹の心を支え、少しでも図書館に目を向けて欲しいと願っていたのだが、一樹の背景はまだまだ玲子の知らない余白だらけだった。
ぱしゃり。
もう一度、柄杓ですくった水を飛ばす。
(青崎様のこと、勝手に知った気になっていただけで、本当は何も知らないままだったのかもね)
ぼぅっとしていると、自嘲するような考えが浮かんでくる。
だがそこへ、玲子の思考をかき消すけたたましいエンジン音が聞こえてきた。
「おい、そこの女! 邪魔だ!」
門扉の前に車が停められ、慌てて玲子は轢かれないように飛び退く。
降りてきたのは成嶋孝明だった。
「あ、あなたは!」
玲子は急いで隣家へ駆け込もうとする。
しかし、後部座席から降りてきた別の人物を見て足を止めた。
「こんばんは、お嬢さん。ご主人は不在かな」
なぜ、この人がここに。
全身から血の気が引いていくようだった。
忘れもしない。
人の良さそうな笑みと優しげな猫なで声、見てくれだけはいかにも善良そうな中年男性だが、玲子にとっては狸爺同然の男。
「私は平郷と申す者でして、こちらのお宅に大切なお話があって伺いました。少しお時間はよろしいですかな?」
まさか、玲子が誰なのか気づかないというのか。
(うそでしょう……)
「お嬢さん?」
目を見開いて愕然とする玲子に、男は不思議そうに首を傾げる。
(実の娘の顔も分からないなんて……本当に、この人は私を捨てたのね……)
目の前にいるのは他ならぬ、玲子の父その人だった。
「……ええ、どうぞお入りください。旦那様は半刻もすれば帰宅なさりますから、中でお待ちいただけますか」
玲子は一樹の言いつけを破った。
本当なら追い返すべきだが、ここでこの男を逃すわけにはいかなかった。
長年行方が分からなかった逃げ足の早い父のことだ、一度逃せば次はない。
もし、父が一樹に何かしようというのなら、玲子はとても我慢ならなかった。
「そうですか、それはありがたい。では、成嶋くん。ぜひお邪魔させていただこう」
「はい。奴が帰ってきたら、ようやく本題が進められますね」
「これこれ、そう血気盛んになるものではないよ。私たちは正当な権利の話をしに来たのだから」
玲子の父は、孝明をなだめるように笑う。
怒りを押し殺し、玲子は二人を広間に通すとお茶を出す。
「いやあ、ありがたい。先触れもなしに急に訪ねてすまなかったね」
「いえ……」
父は何も知らない顔で玲子に感謝を述べていた。
いても立ってもいられず、玲子は笑顔を装い話を聞き出そうとする。
「失礼ながら……旦那様とはどういったご関係なのでしょうか。私はあまり旦那様のお仕事についてお聞きしたことがないので申し上げず、すみません」
「ああ、私というよりもここにいる孝明くんが青崎青年の親族なのだよ。私はその付き添いなんだ」
全く疑うことなく、父はぺらぺら話し始めた。
孝明も、今日は足を組んで上機嫌そうに得意げな顔をしている。
「彼と新しい事業を始めることになってね。その為に、ここの土地を売りたいんだ」
「えっ……!?」
「ああ、君は知らないんだろうね。聞けば、この土地は相続関係を有耶無耶にしたままになっているそうじゃないか。こういうのはね、放置しちゃあいけない。まあ、要は困っている若者同士を捨て置けない年長者のお節介だよ」
「何を言いますか、平郷さんのような博識な方の手助けがなければ私にはどうにも出来ませんでしたよ」
孝明は大声で笑う。
(博識な方、ですって?)
父は失踪してから学者にでも転職したのだろうか。
確かに、孝明と一樹の間は相続関係で揉めている様子ではあったが、よりによってこの父が介入してくるなんてどんな悪夢だろうか。
「失礼ですが……相続問題というのは、お聞きしても?」
緊張でじんわりと手汗が滲む。
もし、自分の身内が一樹に迷惑をかけようというのなら、この図書館を土足で踏みあらそうと言うのなら。
玲子は到底、自分を許せそうになかった。
「なんだ、知らなかったのか?」
孝明が小馬鹿にしたように笑う。
「青崎一樹は俺の異母弟だ。本来ならこの屋敷を手に入れられる立場になどなかったというのに、祖父の慈悲で生かしてもらっているだけの恥知らずなんだよ」
「え……?」
「妾が勝手に産んだ子で成嶋家の一員などではない。あれは疫病神だ。あれさえいなければ起きなかった問題は山ほどある。この屋敷だって、成嶋家のものだと言うのにあれが勝手に住み着いているんだぞ」
嘲るような言葉遣いだった。
孝明との因縁が、まさかそのような理由だったとは。
親族、と言っていたが異母弟とは誰が思うだろうか。
どうりで玲子に自身のことを知られたくないと思うわけだ。
大企業の経営者一族の婚外子なんて、なかなかに厄介な立場だろう。
(でもそれは……青崎様のせいではないわ)
孝明は一樹を疫病神だと言ったが、子どもは勝手に生まれてくるものではない。
たとえ一樹の存在が問題を招いたとしても、それは孝明の父親に責があるに決まっている。
「そうだ、お前。ここよりもっと良い勤め先を薦めてやるから、今すぐ出ていくのはどうだ。どうせはした金でこき使われてるんだろ。女中がいなくなればさすがの奴も困るはずだ」
いずれ出ていって貰うことだし、と孝明は付け足す。
にたにたと小馬鹿にしたような笑みは、本気で良い勤め先を薦めてくれるつもりがないと一目でわかった。
「いえ、それは結構で……」
「それがいい! 孝明くんの紹介状があれば君も安心できるだろう」
玲子の話を父が遮る。
「私にも、君ぐらいの歳の娘がいるんだ。こんなところで一人寂しく働いてないで、もっと華やかな場所で良い男を探すべきだろう」
「……娘さんがいらっしゃるのですね」
「今は神戸にいるんだ。親戚筋に預けてるんだが、こっちに呼び戻して見合いをさせる予定だよ。若い娘は早く結婚して子を産むに越したことはないからね」
まるで常識のように語る姿に、玲子は吐き気すら覚えた。
父は玲子の存在は忘れてはいなかったが、ただ一人の娘として尊重するつもりは毛頭ないらしい。
自分が黙って置き去りにした娘が、今も親戚の元で健やかに暮らし、父からの頼りを待っているなんて、どこまでも自分の都合でしか考えていない。
玲子はもはや我慢ならなかった。
こんな人に、この図書館を奪わるぐらいなら今ここで自分の手で断ち切らなければならないと、決意した。
「ですが、残念ですね。その娘さんは、神戸にはおりませんよ」
「なに?」
「彼女は身売りさせられそうになって、命からがら逃げていきました。そして名古屋に帰り、今は青崎様のお屋敷でお世話になっております」
父と孝明は怪訝そうに眉を寄せて玲子を凝視する。
玲子は至極穏やかに、笑顔の仮面を被った。
「ご挨拶が遅れました。私、平郷玲子と申します」




