第11話 自分の居場所
成嶋商社、というのは根っからの庶民である玲子ですら知っている大企業だ。
その経営者一族の息子が横暴にも青崎家に押しかけ、この土地を奪うと豪語していった。
「成嶋孝明とは少々因縁があってな。彼は僕を蛇蝎のごとく嫌っている。だからあんな乱暴な態度なんだ」
一樹は苦い顔をして語る。
親族だというのによそ者などと暴言を吐くなんて、よほど不仲なのだろう。
大企業一族と一樹が親族であるということより、孝明の態度の方に驚きが勝ってしまうほどだった。
「今後もまた押しかけてくることはあるだろう。だが、きみのことは絶対に傷つけさせないと約束する。今度成嶋孝明が来ても、決して招き入れてはいけない。全て僕が対応するから、きみは彼と顔を合わせる必要はない」
「は、はい。分かりました」
「もし僕がいない時に来たら、家の中に隠れるかお隣の幸田さんに助けを求めなさい。僕の職場にもすぐ連絡してくれ。万一連絡がつかなかったら、文哉を頼るように」
一樹は抽斗から帳面を取り出して、領事館と文哉それぞれの連絡先を書き付けて玲子に渡す。
仕事に関わることは詮索してはいけないという決まりになっているが、そうも言っていられない様子だ。
「はい。必ずそうします」
孝明と一樹の因縁とは何か、知りたいと思う反面、たやすく触れていけない話題なのだということがひしひしと伝わってくる。
「もし、ここに勤め続けることに不安を感じるようであれば他の勤め先を紹介しよう」
心配そうに言った一樹に、玲子は驚いてしまった。
優しい彼のことだから孝明を怖がる玲子を思いやっての言葉なのだろう。
何もおかしな話ではない。
だが。
「他の、勤め先……ですか……」
これまで何度も職場を変えてきた。変えざるを得なかった。
引き取ってもらった親戚一家でも、奉公先でも、どこへ行っても玲子の居場所は無かった。
だから、また新しい場所へ行こうがさして惜しいと思うことはないはずだった。
(青崎様のいない、他のお家で働く……)
そう思うと、胸がぎゅっと締め付けられるように苦しい。
頭が真っ白になるかのようだった。
「っ……」
「どうした?」
呆然としてしまった玲子に、一樹は怪訝そうに顔を覗き込む。
どうして、こんなに苦しくなるのか。
玲子は必死に理由を考える。
たくさんの本に囲まれていて心地よいお屋敷だから。
お洒落な洋館で働けるのが嬉しいから。
それだけではない。
自分のことを心から思いやってくれる一樹がいるから、青崎家から離れ難いと思えるのだ。
(ああ、そうか……私、いつの間にかここに自分の居場所を見つけていたのね……)
文哉がきっかけで、いつのまにか一樹も玲子を司書と言うようになり、自分の居場所ができたように感じていたのだと玲子はやっと自覚した。
(私、この人のそばにいたいんだ)
思い出の品も場所も全て手元から離れてしまった玲子にとって、ひとつのものに執着することは虚しいだけのことだった。
それなのに、青崎家を出ていく自分を想像した時、明確に嫌だと思ってしまった。
こんな形で離れていくのは嫌だと。
まだ玲子は、一樹が隠している図書館への本心を何も引き出せていない。
どれだけ一樹と親しくなっても、この図書館に詰まった思いの数々を知ったとしても、まだ何も解決できていないのだ。
せめて、一樹が思い出と向き合えるようになるその日まで、自分にできることをしたいと確かに思ったはずなのだ。
「……いいえ。私はここに残り続けます。青崎様が大変な時こそ、お支えするのが私の役目ですから」
「きみ……」
「それに私は、この図書館の司書ですから!」
笑顔で胸を張る玲子に、ようやく一樹は顔をほころばせた。
このお屋敷に、これから波乱が訪れようとしている。
その最中に、司書であり女中である自分が逃げ出すことなどできるものか。
玲子は決意を込めて、精一杯の笑顔を浮かべた。
「そこまで言うのなら、僕から言うことは何もないな。またこれからも、よろしく頼む」
「はい!」
何があろうと、玲子は自分の役割を全うするのみだ。
使う時がないことを願いながら、一樹から渡された連絡先を大切にしまい込んだ。
***
翌日、いつものように出勤した一樹は仕事に打ち込んでいた。
同僚たちの話し声にタイプライターの音。
普段通りの職場で、仕事も変わりない。
しかし、いつもと違って一樹の心の中にあるのは玲子の姿だった。
(これ以上、成嶋家との関係を隠し続けるのは難しいか)
まさか玲子からここに残り続けると断言されるとは思わなかったが、それがなぜだか嬉しく感じられた。
一樹自身、玲子の明るく屈託のない笑顔に癒されていたところもある。
だがその一方で、知られたくないことまで玲子に知られてしまうことへの恐れも大きくなっていった。
(何のために、最初に規則を作ったんだ。これでは意味が無い……)
手元の文書に目を移す。
要人に出す手紙を書き上げ、またその後は英字新聞や各国での情報誌を翻訳し要点をまとめなければいけない。
近頃は桑港で移民問題に関して両国の対立があり、上層部は気を揉んでいる状態だ。
専門家や政治家ではないが、正確な情報を収集し的確な意見を出すには少しも手を抜いてはいけない。
世界各地で起こる諸問題を前にしていると、自身が悩んでいることがだんだんと些事に思えてくる。
しかしふと、ペンを休ませればまたすぐに玲子のことを考えてしまう。
(彼女は……今、どうしているだろうか)
他国の言語ならばいくらでも理解できるというのに、いざ玲子を前にすると言いたいことが言えなくなる自分がいかに情けないかも思い知らされるようだった。
「青崎さん、来客ですよ」
突然の知らせに、一樹は表情をよそ行きのものに改める。
「誰でしょうか? 渡航申請者の件は午後からだったはずで……」
予定にない訪問だ。
まさかまた渡航者が事件に巻き込まれたか、政府からの急な言伝かと思いきや。
「やあ、おはよう!」
困り顔の部下の背後から現れたのは、ずいぶん見知った人物だった。
「文哉……なんだ、お前か」
朝から溌剌とした文哉と対照的に、一樹はすっかりずどんと声を落とす。
「大丈夫かい。ずいぶん酷い顔だ。相変わらず重症みたいだね」
「何がだ。それで、今日は何の用なんだ? きみのところのお父上は出張中だが」
「だからだよ。それより、君に伝えなきゃならないことがあってね」
文哉は一樹の肩をぽんぽんと叩く。
励ましに来たのか冷やかしに来たのか良くわからないと、一樹が振り払おうとしたその時だ。
「君の大事な司書さんのことで、ちょっとね」
文哉が小さく囁く。
玲子に何かあったのかと、一樹はすぐさま血相を変えた。
「場所を変えるぞ」




