第10話 突然の来訪者
その日から、一樹と玲子の距離は少しずつ近くなっていった。
一樹が玲子に見せる表情はまたさらに柔らかいものになり、玲子のことを気にかける回数も増えた。
本人たちが気づいていなくとも、確かに屋敷の雰囲気は変わりつつあった。
「きみ、また辞書とにらめっこか」
「青崎様! 実は、この本を読んでみたいと思いまして」
以前は本棚に近寄らなかった一樹が、休日に玲子の様子を見に来るようになったのだ。
掃除を終わらせ休憩の合間に、玲子がこうして本を読み漁っているのをちらりと見てはまた書斎にこもり、何か言いたげにしつつも見守っているような様子で。
だが時折玲子に外国の知識や言葉を教えて手助けしてくれることも増え、今日も玲子が辞書を前にうんうん唸っているのを見かねて声をかけてくれた。
「小説? 珍しいな、今回は料理本や旅行記ではないのか」
「はい。というのも、料理本に記されていたレシピに、この小説に登場する料理を元にしたと書かれていたので、それが気になったんです」
玲子はもうひとつの本を開いて示す。
最初に洋食を作ろうと思って見つけた、手書きの料理本だ。
日本人好みに工夫を加えたような味付けが興味深くて、いつしか玲子は一番にこれを参考にするようになっていた。
しかし、玲子が示した本を見て、一樹の顔が少しひきつる。
「……なるほど。きみは本当に探し物が上手いようだ」
「青崎様?」
「いや、なんでもない。それで、どこが分からないんだ。その本なら翻訳版があったはずだが」
「えっ、あったのですか!?」
「ああ、題が違うから気づかなかったのか。こっちの棚にある」
一樹はぎっしり詰まった本棚の中から一冊を取り出す。
なんてことのないように玲子に手渡すが、図書館をどうでもいいと言う割には動作に一切の迷いがなかった。
それはつまり。
「青崎様、ちゃんと覚えているじゃありませんか」
「……っ、別に、偶然だ。それより、ほら。こっちの方がきみには分かり易いだろう」
「ありがとうございます」
誤魔化すのが下手だが、深くは追求せずに本を受け取る。
素人の玲子が一から文法を学んで翻訳するのは難しい上にずっと時間がかかるだろう。
翻訳版があるのなら、無理な苦労はせずにすむ。
けれど、一樹が付きっきりで教えてくれる時間も悪くなかったような気がして――――――。
(私ったら何を考えてるのかしら)
玲子は余計な考えをかき消すように頁を捲る。
「すっかり司書らしくなったな」
「え?」
ふと、顔を上げると一樹が優しい顔で玲子を見ていた。
「別に。文哉の言っていたことを思い出しただけだ」
声に出すつもりはなかったのだろう。
つい、口からこぼれたとでも言うかのように、一樹はハッと表情を改めてから咳払いをする。
しかし、垣間見えた一樹の表情は、まるで愛おしいものを慈しむかのような温かいものだった。
(それって、私のことを認めて下さったということ……)
きみが何をしようが関係ない、なんて言って突き放してばかりだったけれど、この頃の一樹は明確に玲子を、そしてこの図書館を気にかけるようになった。
玲子はまるで自分自身がこの図書館に必要な存在だと認めてもらったような、自分だけの居場所ができたような気分になる。
嬉しいような、なんだか恥ずかしいような。
二人して、なぜか視線を逸らして気まずい沈黙が広がる。
だが、その時だった。
玄関のドアベルが鳴り、玲子は弾かれたように立ち上がる。
「ゆっ、郵便かもしれません! 行ってきますね」
「あ、ああ」
沈黙に耐えかねていたところだったので、救われたような気になって玲子は小走りで駆けていく。
「はーい、今出ます…………」
だが、玄関を開けてみれば、目の前に立っていたのは配達員ではなかった。
三つ揃いの背広を着た男性が、険しい表情でこちらを見下ろしていた。
彼は玲子を見るやいなや、顔をしかめる。
「なんだ? この家に若い娘なんて珍しいな。まさかあいつの女か?」
なんと不躾な客だろうか。
玲子は唖然としつつ、なんとか応対しようとする。
「あの、どちら様でしょうか」
「はぁ? 礼儀のなってない女だな。俺が誰だか知らないとでも言うつもりか?」
「旦那様に何かご用でしょうか」
まさかこんな無礼な人が一樹の客だとは思いたくないが、万一ということもあるかもしれない。
玲子は毅然とした態度で立ち向かうが、それは男性をますます苛立たせるだけであった。
「用も何も、この家が誰のものだと思ってるんだ!」
「え……?」
「おい、あいつは、一樹はいるんだろう!? 早く引きずり出せ!」
「え、ええと……」
玲子は男性の凄まじい剣幕に後ずさる。
この家が誰のものかなんて、そんなの一樹のものに決まっている。
男性は酒に酔っているわけでもなく、かといって人違いで訪ねてきたというわけでもなさそう。
(け、警察を呼ぶべき……?)
洋品店にいた頃、こういう困った客に遭遇したことはあった。
怒鳴り散らして怖がらせれば言いなりになると思って、威張る嫌な客。
そういう時は店主がすっ飛んできてどうにか収めてくれるものだが、ここは店ではない。
「あの、ひとまず落ち着いていただいて……」
「これはこれは、成嶋さん。お久しぶりです」
玲子の声を遮ったのは、一樹だった。
騒ぎを聞きつけて来てくれたのだろう。
一樹は玲子を庇うように前に出て、玲子に耳打ちする。
「大丈夫、僕の後ろに隠れて」
玲子はおそるおそる、一樹の背後に隠れて様子をうかがうことにした。
「ふん、やっと出てきたか。人様の家庭から奪った土地で、女を囲っていいご身分じゃないか」
「ご冗談を。彼女はうちの女中ですし、この屋敷は遺言により正式に受け継いだものです」
「相変わらず図々しい奴だな! なにが正式に受け継いだもの、だ。ふざけるもの大概にしておけよ」
成嶋と呼ばれた男は唾を吐き散らさんかの勢いで怒鳴っているが、一樹は対照的にかなり冷静な対応だった。
「それで、本日はどういったご要件でしょうか」
「いいか、今日はお前に忠告に来たんだよ。もうすぐこの土地は俺のものになる。さっさと荷物をまとめて、屋敷のそこら中にあるゴミのような本を売り払っておけ!」
ゴミ呼ばわりとはなんと酷い。
(この人、一体何なの……)
一樹とは知り合いのようだが、どう見てもいい関係ではない。
成嶋の話は、この屋敷を奪おうとしているようにしか聞こえなかった。
「遺言状の偽装でもなさるおつもりで? そうまでしてこの土地を手に入れる利点はないと思います」
「お前に分からんだろうが、ここは利用価値が高いんだ。やり方次第でいくらでも金になる。そもそもお前のようなよそ者が住んでいていい場所じゃないんだ。俺が有効活用してやるって言ってるんだよ」
「あなたに商売の才能はなかったと記憶しておりますが」
「黙れ! いつまで経っても礼儀がなってないな。これだから卑しい生まれの奴は困る」
成嶋は吐き捨てるように言ってから、背後の玲子をぎろりと一瞥する。
「腕の立つ弁護士を見つけたんだ。来月にはお前はこの街から出ていかざるを得なくなる。もちろん、莫大な慰謝料を俺に払った上でだ」
それだけ言い放つと、また鼻息を荒くして、門扉の前に停まっていた自動車に乗り込んだ。
突然の出来事に、玲子は混乱状態だ。
嵐のように襲来し、過ぎ去っていってしまった。
「あのう、今の方は……」
「すまない。少しの間騒がせるかもしれない」
一樹は玄関の戸を閉め、広間のソファに腰掛ける。
ふぅ、と深いため息をついてから向かいに座るよう玲子に促した。
先程までの騒がしさがうそのように静寂が広がる。
しばし間を開けてから、一樹は苦々しい表情を取り繕うことなく口を開いた。
「あれは……僕の、親族だ。名を成嶋孝明と言う」




