第9話 霧の中、鎖の音が近づく
帰り道は、行きよりも静かだった。
窪地を発つ朝、メルカは腕の藍を描き直していた。雲の森を抜けるまでは、まだ森の草描きが要る。その藍がどこで作られたものか、メルカはもう知っている。筆を置くまで、一度も顔を上げなかった。
大河は、来た時の若者の舟で渡った。若者は相変わらず一言もしゃべらなかった。ただ、俺たちを岸に下ろす時、メルカの腕の藍の文様にちらりと目をやって、すぐにそらした。
◇
森を抜け、斜面を登りはじめて二日目の昼前、空気が変わった。
光が消えた。木々の幹が数歩先から白くぼやけて、その向こうは何も見えない。枝という枝から垂れた苔の先で、しずくがぽたり、ぽたりと落ちている。雨は降っていない。なのに、森じゅうが濡れている。
メルカが眼鏡を拭いた。拭いたそばから、また曇る。三回拭いて、メルカはあきらめて眼鏡を額に押し上げた。
「……霧、ですか」
「雲だよ。高原で話した雲の蓋の、ちょうど裏側を歩いてるんだ」
「……下りる時に、雲を飲む森だとおっしゃっていた森ですね」
「雲って、うまいのか」
後ろから、キシェンが口を挟んだ。
「味はしないな。腹にもたまらない」
「なんだ。じゃあ峠に着いたら、リサの粥を三杯食う」
「リサは、お前には二杯までしか出さないぞ」
「足りない分は、メルカのをもらう」
「差し上げません」
メルカが即答した。その横顔が、窪地を出てから初めて、少しだけ、いつものメルカに見えた。
それから、しばらく歩いたころだった。
気がつくと、しんがりのキシェンが黙っていた。鼻をひくつかせながら、霧の奥をじっと見ている。
「……鳥が鳴いてない」
言われて、気づいた。いつもなら霧の向こうで小鳥が鳴き交わしているはずの森が、今日は、しずくの音しかしない。
キシェンが、俺の肩に手を置いた。
「アレク。メルカの前を歩け。何があっても、離れるな」
いつもの軽い声だった。目が、笑っていなかった。
俺は、頭の上の白さを見上げた。
白は、上へいくほど明るい。明るさの具合で、蓋までの高さは、だいたい読める。
「道を外れる。この道は斜面を巻いて、まだ一時間は雲の中だ。真っすぐ上へ突っ切れば、二百歩で蓋の上に出る」
眼鏡を額に上げたままのメルカは、足もとの根も、ろくに見えていない。俺は、その手を取った。冷たく濡れた、細い手だった。メルカは、すぐに握り返してきた。
根と岩をつかんで、急な斜面を登った。百歩。百五十歩。頭の上の白さが、目を細めるほどまぶしくなっていく。
あと、少しだ。
◇
最初に聞こえたのは、鎖の音だった。
じゃらり、と。霧の向こうで、重たい金属がこすれ合う音。
次に、足音。濡れた落ち葉を踏む音が、前から、横から、霧の中を回り込むように近づいてくる。
「止まれ」
まぶしい白さを背にして、男たちが現れた。
七人。革の胴着に、腰には山刀。三人が、短い弩を構えている。背中の袋から、鎖と、輪になった鉄の枷がのぞいていた。大人の手首の太さの枷と、それよりずっと小さい枷。
奴隷狩りだ。
先頭の男は、頬に古い傷のある、日に焼けた人間だった。男の目が、メルカの紺の制服で止まった。
「……役人か。こんな雲の中で、ご苦労なこった」
メルカが眼鏡をかけ直して、背筋を伸ばした。震えてはいなかった。少なくとも、声は。
「帝国地理院、測量局の測量官です。この者たちは、私の雇った案内人です。通していただけますか」
「通すさ。あんたはな」
男の視線が、俺に移った。頭のてっぺんから爪先まで。農園の執事が、藍の葉を見る時と同じ目。
「草描きもなしで、この蒸し暑い雲の中を、平気な顔で歩いてる。人間の体じゃ、そうはいかねえ」
男は、黄色い歯を見せて笑った。
「混ざりもんだろ、お前」
俺は、笑った。笑うしかなかった。
「人間だよ。峠育ちで、丈夫なだけだ」
「どっちでもいいさ。決めるのは、買い手の旦那がただ」
後ろの二人が、鎖を手に前へ出てきた。
「帝国法では、印のない自由民を捕らえることは――」
「お嬢ちゃん。霧の中じゃ、役人も足を滑らせる。崖から落ちた測量官なんざ、この山にゃ何人も眠ってるんだぜ」
メルカの唇から、色が引いた。
「いやあ、旦那、話が早くて助かるよ」
キシェンが荷物を下ろしながら、ひょいと前に出た。両手を、ひらひらと広げている。
「こいつを売るって話なら、俺にも一枚噛ませてくれよ。で、いくらになる? 混ざりもんは高く売れるって噂は聞くけど、誰がそんな値をつけるのか、俺みたいな田舎者には、さっぱりでね」
男は、鼻で笑った。
「帝都の市場なんざ、はした金だ。海の向こうの旦那がたが、混ざりもん一匹に、帝都の三倍出す」
「海の向こう? へえ。そいつは景気がいい」
キシェンは指を折って、分け前の計算をはじめた。べらべらと、よくしゃべる。
時間を、稼いでいる。何のために?
俺には、山刀も弩もない。だから、上を見た。
頭の上のまぶしさが、急に鈍った。雲の上で誰かが、日差しの前に手のひらをかざしたみたいに。枝の先からぽたり、ぽたりと間をおいて落ちていたしずくが、細かく、絶え間ない雨垂れに変わった。さっきまで斜面を這い上がっていた温い空気が止まって、かわりに足首のあたりを、冷たい空気が、斜面の上からすうっと撫で下りていく。
蓋の上の斜面が、日を隠されて冷えたのだ。冷えて重くなった空気が滑り下りてきて、この雲を、上から押しつぶすように厚くする。
俺は、メルカの袖を指先で軽く引いて、小声で言った。
「三十数えたら、ここは一段濃くなる。濃くなったら、俺が合図する。そしたら、伏せろ。それまで、動くな」
メルカは前を向いたまま、まばたきを一つした。それから、唇だけで数えはじめた。
霧の奥で、ぱき、と濡れた枝の折れる音がした。それから、息を呑むような、短い音。あとは、何も聞こえなかった。
「おい。後ろ、どうした」
傷の男が、振り返らずに言った。返事はなかった。いちばん後ろの若い男が、山刀を抜いて霧の中へ踏み込んでいった。背中が、白い壁の向こうに、すうっと溶けた。
湿った音がした。重い袋を、地面に落としたような音。
今度は、男たちの誰もが振り返った。
「……てめえ、何を連れてきた」
「俺? 旦那、俺たちは三人だぜ。見りゃわかるだろ」
弩の三人が、そろって俺たちに矢先を向け直した。
メルカの唇が、二十八、二十九と動いた。
白が、落ちてきた。
数歩先にいた男たちの影が、ひと息で、乳の中に沈んだ。自分の伸ばした手の先さえ、ぼやける。
「伏せろ!」
叫ぶのと同時に、メルカの肩をつかんで地面に引き倒し、もう片方の手でキシェンの帯をつかんで、引きずり下ろした。
頭の上を、弩の矢が、ひゅっ、ひゅっと二本抜けて、背後の幹に突き刺さった。さっきまで、メルカの胸と、キシェンの顔があった高さだった。
三本目は、来なかった。
俺の声が白に呑まれたのと、同じ瞬間だった。すぐ横の白が、そこだけ渦を巻いた。どさりと、誰かがメルカの足もとに倒れ込んできた。
弩の男だった。両手で押さえた喉が、横一文字に開いていた。指の間から、泡の混じった血が、ごぼごぼとあふれた。
かかとが、濡れた落ち葉を何度か蹴った。血が広がって、メルカの長靴の爪先を濡らした。
やがて、動かなくなった。目は、開いたままだった。
メルカは、悲鳴も上げなかった。伏せたまま、両手で口を押さえて、その目を見ていた。
悲鳴が、三つ、続けざまに上がった。どれも、白の中からだった。二つは、すぐに途切れた。最後の一つは、長く尾を引いて、それから、途切れた。
この白の中では、弩は目の前の白しか撃てない。山刀は、自分の腕の先しか切れない。霧の中の何かは、俺の声と同時に動いた。俺が読んだ一段濃い白を、合図にしたみたいだった。
濃い白は、やがて、すうっと薄くなっていった。
メルカの上に覆いかぶさったまま、俺は顔を上げた。
立っているのは、もう傷の男一人だった。男は弩を捨てて、霧の上へ走り出した。




