第10話 『食いな。吐いてもいいから、食いな』
男の背中が、霧の中を、どんどん小さくなっていく。そして――
ふっと、霧が切れた。
五十歩ほど上だった。俺が目指した、あのまぶしさの真下で、男は蓋の上に出た。まばらな針葉樹の間の、乾いた草地。灰色の岩。真っ青な空。その明るい斜面を、男が這うようにして登っていくのが、霧の切れ目からくっきりと見えた。
男が、前のめりに倒れた。それきり、起き上がらなかった。
日差しの中には、男のほかに、誰の姿もなかった。
◇
雲の森が、また、しずくの音だけになった。
「終わったぞ。もう起きていい」
キシェンが、俺の肩を叩いていた。
メルカも、のろのろと起き上がった。紺の制服の背中は泥と落ち葉にまみれ、前は、膝から下がどす黒く染まっていた。
霧の中に倒れていたのは、六人。喉か、脇の下か、太腿の内側。どれも、一度で、迷いなく。山刀を抜いた者も、それを振るった跡がなかった。
「……何が、いたんですか」
「わからない」と、俺は答えた。本当にわからなかった。
キシェンは、霧の上の傷の男のところまで登っていって、戻ってきた。男の首の後ろには、細い針のようなものが一本刺さっていた、とだけ言った。それから、男たちの懐を一人ずつ探りはじめた。
「どこから来た連中か、知っといたほうがいい」
財布を逆さにすると、帝国の銀貨に混じって、一枚だけ、見慣れない金貨が落ち葉の上に転がった。皇帝の横顔の代わりに、波の上に浮かぶ小さな島と、帆を張った船が刻まれている。
キシェンはその金貨を指でつまみ上げて、裏表を眺めた。それから、自分の懐にしまった。
俺は、何も聞かなかった。
メルカが、野帳を開いた。湿気でよれた紙に、震える鉛筆で、いつもの几帳面な字とは似ても似つかない字を書きつけていく。
「……何を書いてる」
「場所と、時刻と、人数です」
メルカは、顔を上げなかった。
「測量官は、見たものを、記録します。それが、仕事なので」
鉛筆が、紙を破いた。メルカは、破れた頁の隣に、もう一度、同じことを書き直した。
キシェンは、男たちの袋から枷を残らず出して、岩の上に並べ、石で留め金を叩き割った。小さいほうの枷も、一つ残らず。
メルカは、足もとの男のそばにしゃがんで、開いたままの目を、指でそっと閉じた。
それが、俺たちにできた、ただひとつの弔いだった。
◇
夜更けに、峠の宿に着いた。
リサは扉を開けて、俺たちの顔を見た。メルカの膝から下の、乾いて茶色くなった染みを見た。それから眉ひとつ動かさずに、麦粥を温めはじめた。
メルカは、一杯目を、半分しか食べられなかった。二杯目を、リサが無理やり持たせた。
「食いな。吐いてもいいから、食いな。腹に何か入ってなきゃ、泣くこともできやしないよ」
雷みたいな声じゃなかった。メルカが二杯目をゆっくり全部食べると、リサはその背中を一度だけ、とん、と叩いた。いつもの、ばんばんじゃなかった。
暖炉の前で膝を抱えたまま眠ってしまったメルカの肩に、俺は自分の外套をかけた。眠っているはずの指が、外套の端を探りあてて、きゅっと握った。
その指をほどく気には、なれなかった。
◇
峠の西側は、風の通り道だった。
発つ朝、キシェンは外套の下に、毛の上着まで着込んでいた。
「昼までに、全部脱ぐことになるぞ」
「朝は凍えてんだよ」
尾根を越えたとたん、背中から、ごう、と風が押してきた。稜線で話した、あの風だ。下るにつれて、風は温かくなった。キシェンは一時間ごとに一枚ずつ脱いでいき、昼には、脱いだ服の山が荷物の上で倍になっていた。
見下ろす麓の街道を、幌をかけた荷車の列が、土煙を引いて南へ這っていた。北のピエモンテの鉱山から、南の陣へ鉄を運ぶ荷車だと、キシェンが言った。ウィンパーたちは、もう着いたころだろうか。
東の斜面で測ったのと同じ高さで、メルカが岩陰に寒暖計を据えた。
「読む前に言っとく。東より、上着二枚ぶんは暖かいぞ」
「……的中です。ただし、上着の枚数は、測量の単位にありません」
言いながら、メルカは熱い風に目を細めた。その唇は、もうひび割れかけていた。
風下の斜面は、一日ごとに色を失っていった。草が減り、とげのある灌木ばかりになり、やがて赤茶けた岩と砂利が斜面を覆いはじめた。
ただ一か所だけ、妙な場所があった。峠から南へ半日ほど離れた、尾根が低くくぼんだ鞍部の真下。そこの斜面にだけ、灌木が帯のように緑を連ねて、麓のほうまで細く延びていた。まるで誰かが、乾いた斜面に、緑の絵の具で一本だけ線を引いたみたいに。
低い鞍部から、東の湿った風が、ほんの少し、こちら側へ漏れ込んでいるのかもしれない。
俺は足を止めて、観察帳の余白に、その緑の帯を描き写した。
そして、メルカの腕の藍が、消えていった。
乾ききった藍が、粉になって熱い風に飛ばされていく。手首の渦巻きから、肘の内側の細い線から、青が少しずつ消えて、その下から、赤黒い文様がくっきりと浮かび上がってきた。砂漠の血彫り。一生消えない色。
不思議なことに、藍が消えていくにつれて、メルカの足取りは軽くなっていった。汗を拭う俺とキシェンの横を、測量器を背負ったまま、すたすたと追い越していく。三つ編みが、背中の上で機嫌よく跳ねていた。
◇
峠を下りて三日目の夕方、山脈の麓の、乾いた谷の入口で野営した。
西の地平線のあたりに、金色の砂の海が帯になって光っている。エルグの砂漠だ。
「明日から、あれか。もう脱ぐ服がねえぞ」
キシェンはぼやきながら、薪を探しに出ていった。
メルカは、炉のそばで自分の腕を見ていた。手首にうっすらこびりついた青い粉を、指先でこする。青はさらさらと落ちて、赤黒い血彫りだけが残った。
「アレクさん。腕を、見せていただけますか」
俺は、炉の石を積む手を止めた。
「……なんで。腕相撲か?」
「見せていただけますか」
冗談に、乗ってこなかった。引く気のない声だった。俺は、袖をまくって、腕を差し出した。
メルカは、俺の腕をじっと見た。肘の内側。手首。手の甲。
「藍も。血彫りも。苔の緑も。何の色も、描かれていません」
メルカは野帳を開いて、頁をゆっくりとさかのぼった。
「森に入る時、あなたは『慣れてるから』と言って、草描きを描きませんでした。あの雨の森でも。窪地の乾いた高原でも。雲の森でも。そして、今、この熱風の中でも」
銀縁の眼鏡の奥で、夕日を映した目が、まっすぐ俺を見ていた。
「気候の違う土地に入れば、体は少しずつ削られます。それが、この世界の決まりです。測量局で、何百人もの記録を見てきました。例外は、混血の方だけです。親の二つの土地の気候になら、草描きなしで耐えられる。でも、それも二つの土地までです」
「どうして、あなたは平気なのですか」
風が、炉の火を揺らした。
俺は、笑った。いつものように。
「体質だろ」
「体質」
メルカが、まるで聞いたことのない学術用語みたいに、その言葉を繰り返した。
「峠育ちだからな。それに、俺が混血なら、とっくに役人に見つかって、帝都に連れていかれてる。峠でのんきに案内人なんか、やってないさ」
「……そうですか」
納得した顔ではなかった。メルカは鉛筆を走らせた。俺の位置からは、最初の一行だけが、読めた。
――案内人アレク。草描きの使用、確認できず。
メルカは最後まで書き終えると、少しだけ迷うように鉛筆を止めて、行の終わりに、小さな印を一つ書き足した。
問いの印だった。
「あの雲の森で、手を引いて、かばってくださって、ありがとうございました」
それだけ言うと、メルカは毛布にくるまって、炉の向こうで横になった。
俺は、炉に火をくべながら、自分の腕を見た。
夕日の最後の光の中で、俺の肌は、ただの肌の色をしていた。何も、描かれていない。
人間の肌だ。




