第11話 潰された井戸、残りの水は一日半
夜明け前に谷の入口を発って、日が昇るころ、俺たちは山脈の影の外に出た。
足もとは、もう土じゃなかった。拳ほどの石と親指ほどの砂利が、どこまでも平らに敷き詰められている。エルグの砂漠の大半は、こういう石の原だ。
革袋の水は、三人で切り詰めて三日分。明日の朝、山すその扇端の村で汲み足す。南のワジまでの十日は、その先の話だった。
「……見てください」
メルカが振り返って、指さした。
月の山脈の稜線の上に、白い雲が壁みたいに張りついていた。東から押し寄せた雲が、尾根でぴたりと止まっている。尾根を越えた端だけが、西の斜面を滝のように流れ落ちて、溶けるように消えていく。
こちら側の空には、雲ひとつない。
「……山脈が、一枚の大きな傘みたいです。こちら側には、一滴も通さない」
「雨陰って言う。雨の、影だ」
メルカはその言葉を口の中で転がしてから、野帳に書きつけた。山の絵の上に、柄のついた大きな傘が描いてあった。
◇
砂漠に入って、メルカは別人になった。
石の原から陽炎が立ちのぼりはじめても、足取りがまるで変わらない。腕の赤黒い血彫りが、強い日差しの下で、生き物のように艶を帯びている。かわりに、腕に砂漠の赤褐色を描いたキシェンが、しんがりでしおれていた。
「アレクさん。頭の布、巻き方が違います。それでは首の後ろが焼けますし、口に砂が入ります。少し、かがんでください」
言われるままにかがむと、メルカは手早く巻き直しはじめた。頭のてっぺんから首の後ろへ回して、最後の端で鼻と口を覆う。
首の後ろで布の端を結ぶ指が、ひと呼吸ぶん長くとどまった気がした。振り返ると、メルカはもう眼鏡を押し上げて、そっぽを向いていた。
「それから、昼は歩きません。砂漠では、朝と夕方に歩くものです」
「知ってるよ」
「では、なぜ今、歩いているのですか」
言い返せなかった。メルカの口の端が、ほんの少し上がった。
「山の上では、山の指示に従ってもらう。……そうおっしゃいましたね。では、砂漠では、砂の指示に従っていただきます」
「砂は、指示をしないんじゃなかったのか」
「しますよ」メルカは、すました顔で言った。「聞く耳があれば」
しんがりのキシェンが、腹を抱えて笑い転げた。
◇
二日目の朝、俺たちは扇端の村に着くはずだった。
山を出た川は、運んできた石や砂を、扇の形にばらまく。その縁に、水の湧く村が帯のように並んでいる。子供のころ、母さんとそこで何度も水を汲んだ。革袋の水は、もう半分ほどに減っていた。
村は、あった。
でも、誰もいなかった。
日干し煉瓦の家々は、扉を開け放ったまま、がらんとしていた。ナツメヤシの木が何本も、根もとから焼き倒されている。井戸のまわりの乾いた泥には、びょうを打った硬い長靴の跡が、たくさん残っていた。
村の外れの道ばたに、境の神の石が立っていた。膝ほどの高さの丸い石で、旅人はこれに小石を一つ積んで、道の無事を祈っていく。まわりの小石の山は、長靴に蹴散らされていた。
子供のころ、母さんはこの村で水を汲むと、決まってこの石に小石を積んでから発った。俺も習いで、一つ拾って積んだ。
石に手をついた時、裏の、地面に近いところに、指の先ほどの赤茶けた筋が見えた。石の色ではない。キシェンの腕の、砂漠の草描きの色に似ていた。こすると、乾いた粉がかすかに指についた。
井戸をのぞき込んだキシェンが、顔をしかめた。
「……だめだ。石で埋めてある。上に、山羊の死骸を放り込んでやがる」
「帝国の兵、ですか」
メルカの声が、硬くなった。
「たぶんな。敵に水を使わせないための、よくある手だよ。……つまり、この先のどこかで、帝国が誰かと戦ってるってことだ」
メルカは、自分の制服の紺色を見下ろして、袖口を指でつまんだ。
残りの水は、三人で切り詰めて一日半。次の村まで、歩いて二日。その井戸が無事だという保証は、どこにもない。
「アレク。どうする」
◇
俺はしゃがんで、足もとの砂利をひとつかみすくった。指を開くと、隙間だらけの石が、ざらざらとこぼれ落ちた。
「水は、まだある。この下にな」
指で、扇の縁をなぞった。
「川の水は、この隙間から扇の下に潜って、縁で湧く。村の井戸は、その帯の一点にすぎない」
メルカが、はっと顔を上げた。
「井戸を一つ潰しても、水の帯は、消えない」
「ああ。兵隊は、井戸を潰す。でも、地面の下の川までは、潰せない」
問題は、帯のどこを掘るかだった。俺は扇の縁に沿って、北へ歩きはじめた。
三十分ほど歩いたところで、足を止めた。
ほんの少しくぼんだ場所に、灰色がかった細い枝のタマリスクが、肩を寄せ合うように固まって生えていた。根もとに、枯れた葦の茎が何本か、折れて倒れている。
膝をついて、手のひらを地面に当てた。焼けた砂利が、ほんのわずかに、ほかより冷たい気がした。
「ここだ。一メートルも掘れば、出る」
キシェンが小さな鋤を放ってよこした。交代で掘った。三十センチ。六十センチ。砂利は、掘っても掘っても乾いていた。
一メートルを過ぎたあたりで、砂利の色が、黒っぽく湿った色に変わった。鋤の先が、ずぶりと沈んだ。穴の底に、茶色く濁った水がじわりとにじみ出してきた。
「おい……本当に出やがった。お前、水の匂いでもわかるのか」
「わかるか。葦に聞いたんだ」
「葦は、しゃべりません」
メルカが反射みたいに言って、穴の底を見つめた。目がまん丸になっている。野帳を出すのも忘れているらしい。
メルカが記録を忘れるところなんて、初めて見た。
葦は、しゃべらない。ただ、根が水に届かない所には生えない。
ウィンパーの工兵たちは、今ごろ南で井戸を掘っているだろう。工兵は、地図で水を掘りに行く。峠の者は、地形で水を読む。
澄みはじめた水の最初のひと口は、メルカに譲った。メルカは両手で椀を包んで、こくりと飲んで、目を閉じた。
「……冷たい」
最後にキシェンが三杯続けて飲んで、四杯目を頭から勢いよくかぶった。メルカは真顔でそれを見届けてから、ようやく野帳を開いた。
新しい行が、横から読めた。
――扇の縁。葦の根もと、一メートルで水。ここより南のワジまで、およそ十日。
革袋を、どれも口までふくらませた。一日半だった水が、また三日分になった。
日が傾いたころ、西の地平線の陽炎の向こうから、黒い点が一つ、二つ、やがて十いくつも連なって現れた。




