第8話 『この地形そのものが、檻になってる』
婆さまの警告を、俺はメルカに伝えなかった。メルカの野帳には、大河を渡って向こうの窪地を測る計画が、几帳面な字で書き写されている。伝えたところで、測量の道筋は変えられない。
それより、朝飯の数が合わなかった。ゆうべ取っておいた揚げ団子は、三人で三つずつ、九つのはずだ。葉の上には、八つしかない。
「揚げ団子、一つ紛失。容疑者、一名」
「容疑者って俺か!」
俺にはもう一人だけ候補の心当たりがあったが、言わずにおいた。帝国の野帳に、峠の神様を容疑者として載せるのは、さすがに罰が当たりそうだ。
◇
カシキアレ大河は、川というより、動く湖だった。
向こう岸がかすむほど幅が広く、茶色く濁った水が、音もなく流れていく。
村のエルフの若者が、丸木舟で俺たちを渡してくれた。キシェンが何を話しかけても、若者は櫂を差し、引き、また差すだけで、一言も返さなかった。
「器具が濡れたら、許しません」
前から、メルカの低い声がした。測量器を両腕で抱きしめて、背筋を板みたいに伸ばしている。吊り橋に続いて、舟もだめらしい。
対岸に着くと、若者は俺たちを下ろすなり、振り返りもせずに舟を返した。
◇
窪地へ登る半日のあいだに、幹の苔が、目に見えて薄くなっていった。
「キシェン。上着を、荷物のいちばん上に出しとけ」
「この蒸し風呂で?」
森が途切れて、なだらかな高原に出たとたん、空気がひんやりと乾いた。キシェンは荷物の上の上着をひったくり、袖を通した。
メルカが器具を見て、目を見張った。
「湿り気が……森を出たとたんに、ほとんどなくなりました」
「ここは、森の雲の蓋より上なんだ」
振り返ると、歩いてきた森の上に、白い雲が、蓋で押さえたように平たく敷き詰められていた。
「上に暖かい空気が居座って、蓋になってる。雨は蓋の下にだけ降って、上は、このとおりからからだ」
高原の縁に立つと、眼下に、すり鉢のような窪地があった。
底は、見えなかった。すり鉢いっぱいに、白い雲が溜まっている。
縁の道を少し下りたところに、大きな木の門があった。門の上には、白い、角ばった結晶の紋章。塩の結晶だ。
「ハンティントン家の紋章です」
メルカの声が、少しだけ硬くなった。
「帝国の大貴族の一つです。南の海岸に、広い塩田と領地を持っている……」
門の前で名乗ると、農園の執事が出てきた。仕立てのいい上着を着た、人間の中年の男だった。腕の藍の草描きは、線がそろいすぎていて、自分の手で描いたものには見えなかった。
「これはこれは、帝国地理院の測量官殿とは。ようこそ、ハンティントン卿の農園へ」
執事はメルカに深々と頭を下げた。案内人の俺とキシェンには、目もくれなかった。
「あいにく、この季節の窪地は、日が傾くまで雲の下でして。測量は明日になさって、今日はお茶でも」
メルカの指が、野帳の計画の表の上で止まった。一日遅れれば、表の終わりまで、全部が一日ずれる。
俺は、すり鉢の縁を見ていた。
高原の乾いた風が、縁を越えて窪地へ流れ込み、雲の端を、薄くほつれさせはじめていた。日差しは強い。
「十五分で、切れる」
執事の目が、初めて俺に向いた。口の端だけで、笑った。
「案内の方は、この土地は初めてでしょう」
「土地はな。空は、初めてじゃない」
執事が背を向けかけた時、メルカが、小さく声を上げた。
すり鉢の縁から、雲が溶けるように剥がれていき、その下から、緑が現れた。
まっすぐだった。
木々が、定規で引いたような列になって、どこまでも並んでいる。どの木も同じ高さで、同じ緑色をしている。蔓も苔もない。その列の間を、小さな人影が何百も動いていた。
「……農園」
メルカが、呟いた。
執事が、もう一度俺を見た。藍の葉の出来を確かめるような目だった。
「測量官殿は、よい案内人をお持ちだ。では、さっそく窪地の測量を。案内の者をおつけしましょう」
執事が手を叩くと、近くの小屋から、背の高いエルフの男が出てきた。
「監督のひとりです。森のことには、詳しい」
同じ森の者ですから、と執事は言った。腰に短い鞭を下げたエルフが、無言で先に立った。
◇
木々の列の間に入ると、何が植えられているのかがわかった。
藍だ。
同じ高さの木々の陰に、膝ほどの草が、びっしりと植えられている。森の藍の染料をとる草だ。木々は、その日陰をつくるためだけに並べられていた。
草の列の間で、エルフたちが腰をかがめて、葉を摘んでいた。子供もいる。年寄りもいる。誰も顔を上げない。誰も話さない。摘んだ葉を背中のかごに入れる、かさり、かさりという音だけが、列の間に響いている。
みんな、手首に同じ印が彫られていた。白い、角ばった結晶の形。門の上の紋章だ。指の先から手首までは、藍の汁で青黒く染まって、洗っても落ちなくなっていた。
隣で、キシェンが、無意識のように自分の左の手首を右手で押さえた。
俺がそちらを見ると、キシェンはすぐに手を離して、いつもの顔で笑った。
「暑いな、ここは」
「……ああ」
足もとの土は、赤かった。雨に洗われ続けた、痩せた赤い土だ。藍の葉の先が、ところどころ黄色く枯れかけていた。
「メルカ。この窪地の周りを、よく見ておけ」
測量器を据える手を止めて、メルカが顔を上げた。
「窪地の底は蒸し暑い森で、周りは全部、寒くて乾いた高原だ。エルフは、高原に出れば体が弱る。ほかの森へたどり着く前に、倒れる」
「でも……あのお婆さまの蜜は、峠まで届いていますよね」
「高原の苔の、深緑の草描きを使えばな。寒さと乾きに、何日かは耐えられる。婆さまは、それを自分で煮て、自分で描く」
俺は、藍の葉を摘む人影を見下ろした。
「あそこの連中は、毎日藍を摘まされてる。でも、高原の苔の草描きは、一滴も渡されない。柵も、塀も、要らない。この地形そのものが、檻になってる」
メルカの手が、測量器の脚を、きつく握りしめていた。
◇
それが起きたのは、日が傾きかけたころだった。
窪地の端で、叫び声が上がった。藍の列から小さな人影が飛び出して、斜面を駆け上がっていく。まだ十二、三にしか見えない、エルフの少年だった。かごを投げ捨てて、高原の方へ、必死に。
「逃げたぞ!」
監督たちが、鞭を手に斜面を追いはじめた。案内のエルフも、無言で駆け出していった。
少年は速かった。追っ手との差が、みるみる開いていく。
高原の縁を越えた。
そこで、少年の足がもつれた。さっきまで地面を蹴っていた足が、重い荷物を引きずるように鈍くなる。冷たく乾いた高原の風が、細い体に吹きつけていた。
三歩、四歩。少年は、膝から崩れ落ちた。両手で草をつかんで、這ってでも前へ進もうとする。その手にも、もう力が入っていない。
「……やめろ」
気づいたら、一歩踏み出していた。
その腕を、キシェンがつかんだ。驚くほど強い力だった。
「行くな」
「離せ」
「行って、何ができる。俺たちは四人だ。向こうは何十人いる」
いつもの軽い調子ではなかった。低く、冷たく、ひどく静かな声だった。
「お前が飛び出したら、あの子の罰が重くなるだけだ」
高原の縁で、鞭の音がした。乾いた、鋭い音だった。一度。二度。少年の悲鳴が、窪地の底まで届いた。
三度目を振り下ろしたのは、あの案内のエルフだった。同じ森の者。同じ長い耳。表情ひとつ変えずに、少年の背中に鞭を叩きつけていた。薄い服が裂け、背中に赤い線が走る。悲鳴はだんだん小さくなり、やがて、細いうめき声だけになった。
監督たちは、ぐったりした少年の両腕をつかんで、窪地の底へ引きずり下ろしていった。少年の足が、草の上に二本の線を描いていく。その線の上に、ぽつり、ぽつりと、赤い点が落ちていた。
藍の列では、誰ひとり顔を上げずに、葉を摘み続けていた。かさり、かさり。
隣で、メルカが、測量器の脚に両手でしがみついていた。顔は真っ白だった。唇が震えていた。
でも、彼女は、目をそらさなかった。
◇
その夜、執事は、測量官殿のために、と白い布をかけた卓に、焼いた肉と帝都のぶどう酒を並べた。窓の外では、働き手たちが、薄い粥を椀に一杯ずつ受け取る列をつくっていた。
「逃げる者は、年にひとりかふたり、出ますがね。高原を越えられた者は、ひとりもおりません。この土地は、実によくできている」
執事は、ぶどう酒の杯を傾けた。
「南の砂漠でも、また反乱だそうですな。陛下の軍が片づけてくだされば、あちらの土地にも、よい働き手が増えましょう」
メルカの手の中で、銀の匙が、かちりと皿に当たった。
◇
夜更けに、俺は宿舎を抜け出した。
小屋の並びの外れの、柵のそば。昼間の少年がどの小屋にいるのかは、わからない。
夕食の卓からくすねてきた、白いパンと干した果物の包みを、柵の根もとの平たい石の上に置いた。
峠の神様の分だ。
母さんがやっていたことを、ほかに何も思いつかなかった。
柵の向こうで、窪地の底が黒く沈んでいた。この檻の造りなら、俺には全部読める。読めるのに、今夜は何もできない。
地図は、檻の形まで描ける。いつか、描いてやる。
宿舎に戻る途中、渡り廊下の暗がりに、人影があった。メルカだった。肩に毛布をかけ、窓の外の小屋の並びを見ている。
「……眠れなくて」
峠の嵐の夜にも、同じことを言っていた。今夜の声は、まるで違っていた。
「私の祖父母は、森が焼かれる戦争で、村を失いました。帝国が来る前は、種族どうしが、ずっと戦っていたそうです。境目の村は、いつも戦場だった。帝国の兵が来て、その戦争を止めてくれた。だから私は、生まれることができた」
メルカの声は小さく、はっきりしていた。
「帝国の平和がなければ、私は、ここにいません」
「……知ってる。帝国が来てから、森は焼かれなくなった」
「はい」
「代わりに、森の中に、あれができた」
メルカは、何も答えなかった。
長い沈黙のあと、メルカは、自分の左腕の袖をまくった。赤黒い血彫りの上に、きのう描いた藍の文様が、まだ青く残っている。
「この藍の染料は、測量局の支給品です。どこで作られたものなのか、考えたことも、ありませんでした」
メルカの指が、青い線を、ゆっくりとなぞった。
「アレクさん。この藍は……」
「たぶん、ここだ」
メルカは、腕を下ろさなかった。窓から差し込む月明かりの中で、青い文様は、少年の背中の赤い線と同じくらい、くっきりと見えた。
「……この森での測量は、終わりました。明日、ここを発ちます。山を越えて、西へ。ワジまで、あと十八日です」
日数を言う時だけ、声がいつもの測量官に戻った。そうしていないと、立っていられないみたいだった。
◇
翌朝、門を出る前に、柵のそばを通った。
平たい石の上の包みは、なくなっていた。
少年が受け取ったのか。峠の神様が、こんなところまでついてきて、届けてくれたのか。わからないまま、俺は、塩の結晶の紋章の門をくぐった。
振り返ると、まっすぐな森の列の間で、今朝もエルフたちが、黙って腰をかがめていた。
かさり、かさり。
その音は、高原の縁を越えても、耳から離れなかった。




