第7話 『百数えるうちに来る』
夜明け前に小屋を発ち、東の斜面を下りはじめると、すぐに空気が変わった。
一歩下るごとに、風が重く、柔らかくなっていく。キシェンの砂色の癖っ毛が、鳥の巣みたいに膨らんでいった。メルカが、湿り気の器具とその頭を、真剣な顔で見比べた。
岩と雪が草になり、地を這う木になり、針葉樹の黒い壁になった。森林限界をまたいだとたん、風が消えた。
「この下は、昼になると雲がかかる。ここの木は、いつも雲を飲んで暮らしてる」
苔の垂れた雲の帯を抜けると、空が、なくなった。森の底は、昼でも夕暮れのように薄暗かった。
◇
「ここからは、草描きが要る」
キシェンが、荷物から小さな陶の壺を取り出した。深い青の染料。森の藍だ。
メルカも自分の壺を出して袖をまくり、手首に渦巻きを一つ引いて、肘のほうへ細い筆で線を伸ばした。砂漠の血彫りの赤黒い文様の上に、藍の青い線が重なった。
「森の気候に体を合わせる文様です。描いてから半日は、汗や雨で流れやすいので、気をつけないと」
描き終えると、メルカは俺のほうに壺を差し出した。
「アレクさんも、どうぞ」
「いい。俺は、慣れてるから」
メルカは、壺を差し出したまま、きょとんとした。
「慣れている、とは……草描きなしで、森に入るということですか。それは、慣れでどうにかなるものでは……」
「こいつは昔から変な体なんだ。気にしなくていい」
キシェンが割り込んだ。
「変な体とはなんだ」
「褒めてるんだよ。丈夫ってことだ」
メルカは、まだ納得のいかない顔で、俺の腕と自分の腕の青い文様を見比べていた。
◇
日が傾きはじめると、森の天井の隙間から見える雲が、塔のように積み上がっていった。
メルカは倒木に腰かけて、今朝からの数字を野帳に清書していた。
塔のてっぺんが、天井に頭をぶつけたみたいに、平らに広がりはじめた。
「メルカ。野帳をしまえ」
「まだ、晴れています」
「ゆうべの、星の見えない帯だ。あの雲の頭が、もう平らになった。百数えるうちに来る」
メルカは空を見上げて、俺の顔を見た。それから野帳を閉じて胸に抱え、唇だけで数えはじめた。
俺は二人を、巨木の根もとの大きなうろに押し込んだ。三人で入るには少し狭い。いちばん外側に、俺の肩がはみ出した。
メルカの唇が、八十を数えたところだった。
森の天井の上で、ざあっ、と音がした。遠くの滝みたいな音がみるみる近づいてきて、次の瞬間、天井の葉の隙間から、滝そのものが落ちてきた。
葉を叩く音がうるさすぎて、隣のキシェンの声も聞こえない。
メルカが、うろの奥で何か叫んだ。聞こえない。メルカは口を閉じて、乾いたままの野帳を開き、さらさらと書いて見せた。
『記録します。的中』
その下に、小さく「八十二」と書き足してある。数えるのも、やめていなかったらしい。
キシェンが荷物の底から、昨日のチーズの残りとナツメヤシを出した。外は滝、中は小さな宴会だ。メルカがもう一度、野帳をこちらへ向けた。
『チーズ、おいしいです』
わざわざ書くことか。キシェンが腹を抱えて笑った。その笑い声も、もちろん、少しも聞こえなかった。
雨は、三十分ほどで、来た時と同じくらい唐突に止んだ。
森じゅうから、白い湯気が立ちのぼった。メルカはうろから這い出して、腕の藍を確かめた。少し滲んでいたが、流れてはいない。ほっと息をついてから、隣に立つ俺の腕を見た。
濡れた、ただの素肌。
メルカは、野帳を開いた。その手つきが、いつもより少しだけ、ゆっくりだった気がした。
◇
日が沈みかけたころ、森の上から声が降ってきた。
「――峠の坊やかい?」
見上げると、巨木の高い枝と枝の間に、縄と板の吊り橋が架かっていた。その上から、長い耳の、しわだらけの顔がのぞいている。
俺が毎朝の粥にかける蜜をくれる、薬草採りのエルフの婆さまだった。
婆さまは縄梯子をするすると下りてくると、メルカの紺の制服と、腕の血彫りに目を留めた。皺の奥の目が、静かに細くなった。
「帝国地理院、測量局のメルカです。森を測らせていただきに来ました」
「測る、ねえ。……森を測るなら、まずは森の飯を食ってからにしな。腹が減ってちゃ、木の高さもわかりゃせん」
エルフの村は、森の上にあった。
枝と枝の間に、葉で葺いた家々が鳥の巣みたいに架かり、吊り橋で結ばれている。その上を、長い耳の子供たちが裸足で駆け回っていた。
メルカは、揺れる吊り橋の手すりにしがみついていた。子供たちが歓声をあげて駆け抜けるたびに、橋がゆさっと波打って、手すりを握る指が白くなった。
◇
飯の支度ができるまで、枝の上の客の小屋で日誌をつけた。
――森の夕立。雲の頭が平らになってから、百数えるうち。
それから、外套の内側から古い革の帳面を出した。母さんが残した観察帳だ。森の頁には、同じ夕立のことが、母さんの字で書いてあった。
メルカが横からのぞき込んだ。頁の端に、峠のまわりの地形の素描がある。尾根と谷の起伏が、細かな線の重なりで、まるで手で触れられそうなほど立体的に描かれている。
「この描き方……」
「変か」
「いえ。とても、きれいです。ただ……測量局の書庫で見た、古い地理院の地図に、よく似ているんです。今の地図には使われていない、昔の、手間のかかる描き方で……」
「祖父さんの癖だ。母さんは、祖父さんに習ったらしい」
「お祖父様は、どちらで地図を」
「さあな。峠で、案内人をしてた。それしか知らない」
子供の頃、山の上に海の貝があるのはなぜか、と祖父さんに聞いたことがある。祖父さんは笑って、「それを考えるのが、地理学者の仕事だ」とだけ言った。
メルカは、それ以上は聞かなかった。野帳に小さく何かを書き留めてから、計画の表に今日の印をつけた。表のいちばん下の行は、「ワジ」だった。
「ワジまで、あと十九日です」
◇
大きな葉の上に、森の料理が並んだ。香りのいい葉で包んで蒸した川の魚。芋の揚げ団子と、金色の花の蜜。
団子を蜜にくぐらせていたメルカが、ふと手を止めた。
「この蜜……峠でいただいた粥の、あの蜜ですね」
婆さまが、俺のほうを見て、にやりと笑った。俺は聞こえなかったふりをして、団子をもうひとつ取った。
枝のキノコが青白く光りはじめたころ、村の年寄りたちが、千年前から伝わるという古い歌をうたった。婆さまが小声で訳してくれた歌の中に、夜通し動かない北の星が出てきた。その星の名は、釘星とは違っていた。
「婆さま。歌の星は、今の釘星とは別の星なのか」
「わしの婆さまの、そのまた婆さまの頃には、その星が北で止まっとったそうな。空も、ゆっくり変わるもんさ。森と同じでね」
歌が終わると、メルカが小さな声で言った。
「この森は、帝国の地図では、ただ『ヒュライア州、熱帯雨林』と、一行書いてあるだけです」
メルカは、野帳を胸に抱いた。
「書きたいです。全部」
「書けばいい。地図は、一行じゃ足りない」
寝床に案内される前、婆さまが、俺の袖をそっと引いた。
「坊や。大河の向こうの、高原に囲まれた窪地の森には、近寄らんほうがいい」
「何がある」
「帝国の、農園さね」
それだけ言うと、婆さまは、吊り橋の向こうの闇に消えていった。




