第6話 『あなたは、測らないのに、正確です』
稜線へ向かう道は、峠の宿場から北へ延びている。
先頭が俺、真ん中にメルカ、しんがりに荷物を担いだキシェン。登りはじめて一時間もすると、宿場の屋根は眼下の小さな点になった。
「では、最初の基準点を据えます」
小さな岩の肩に出たところで、メルカが立ち止まった。測量器を下ろし、三脚を開き、器具を据える。昨日のかじかんだ手つきが嘘みたいに、動きに無駄がない。
「案内人の方は、勘で道を選ぶのでしょうけれど」
「勘じゃない」
「では、何ですか」
その時、首筋の産毛が、ふっと逆立った。
「……来るぞ。伏せとけ」
東から吹いていた風が、ぴたりと止んだ。一呼吸おいて、強い東風が、雪煙を巻き上げて尾根を叩いた。俺は伏せながら、測量器の三脚の脚をつかんで押さえていた。何事かと顔を上げたキシェンが、雪煙を顔でまともに受け止めていた。
メルカが跳ね起きて、測量器に飛びついた。それから、三脚の脚を握ったままの俺の手を見た。
「……ずれて、いません。据え直さなくて、いい」
ずれた眼鏡も直さずに、メルカは俺に向き直った。
「今……何を見たんですか」
「何も。風が、息を吸った。それだけだ」
眉まで真っ白になったキシェンが、それでもにやにやしていた。
「こいつ、天気の声が聞こえるんだ。峠じゃ有名な話さ」
◇
日が傾きはじめたころ、稜線でいちばん高い岩の頂に着いた。
ここからは、世界がぐるりと見渡せる。東にはヒュライアの森が緑の海のように広がり、西にはエルグの砂漠が金色に光っている。北の白い峰々の中に、ひとつだけ、獣の牙みたいに尖った岩の峰があった。
「王の牙。クラトン王国の山だ。ドワーフの国の真ん中にある」
「ドワーフの……」
メルカの声が、わずかに硬くなった。クラトン王国は、まだ帝国に従わない、山の向こうの国だ。
メルカは寒暖計の目盛りを読み、野帳の数字をさかのぼってなぞった。
俺は東の斜面に沿わせた手のひらを、ぐいと押し上げてから、尾根の向こうへすとんと滑り下ろした。
「湿った東の風は、山を登るあいだに、雨を森へ落としきる。乾いて西へ下りた先が、あの砂漠だ」
「……私の数字は、山の上ほど寒いということしか、言っていませんでした。同じ数字が……森と砂漠の理由になる」
メルカは、野帳に長い一行を書き足した。その横顔は、昨日よりずっと楽しそうに見えた。
キシェンが、峠の市場で値切ったクラトンの山のチーズを、小刀で薄く切って配った。
食べ終わると、メルカは頂の岩に、たがねで基準点の印を刻みはじめた。
その手が、ふいに止まった。
「……アレクさん」
初めて、名前で呼ばれた気がした。
「これを、見てください」
岩の割れ目に、白い扇の形が埋まっていた。細い筋が、放射状に走っている。
貝殻だ。渦を巻いた貝や、サンゴの欠片も、あちこちに白く埋まっている。
「どうして、こんな山の上に、海の貝が」
「峠の上の岩には、よくある。子供の頃から、拾って遊んでた」
メルカは、自分に言い聞かせるように言った。
「……教会では、こう教わりました。はじめ大地はひとつで、神が大地を割った時、海の生き物が、持ち上げられた山に取り残されたのだと」
「そうか」
俺は、指先で貝の筋をなぞっただけだった。
その時だった。
足もとで、岩が、ぐらりと揺れた。
ほんの一瞬だった。頂の小石が、からからと斜面を転がり落ちていく。メルカが測量器の脚に飛びつき、キシェンがチーズの塊を抱えて伏せた。真っ先に守るのがそれか。
「地揺れだ。この山は、よく揺れる」
顔を上げると、南の地平線の上に、細い土煙が一本、斜めに立っていた。風のない日の砂漠で、土煙は横へは流れない。流れているのは、土煙を立てているもののほうだ。大勢の人と、馬と、荷車が。
「南じゃ、戦だって噂だぜ。皇帝の軍が、砂漠の連中とやり合ってるってさ」
キシェンが、チーズの塊を抱えたまま言った。
ゆうべの工兵たちも、あの土煙のほうへ歩いている。
メルカが南の写し図を出して、土煙の先をたどった。西へ張り出した尾根の上で、指が止まる。そこだけ、高さの数字が百の位でそろっていた。メルカは小さく首をかしげて、図を畳んだ。
◇
その夜は、稜線の途中の石積みの避難小屋に泊まった。夜更けに外へ出ると、星がいくつも出ていた。
北の空の、ほとんど動かない明るい星を探す。北の釘星。空はこの星を釘にして、ゆっくりと回る。
俺は腕をまっすぐ前に伸ばし、地平線と釘星の間に、握った拳をいくつ並べられるかを数えた。
「何をしているのですか」
いつの間にか、メルカが隣に来ていた。毛布を肩にかけている。
「釘星の高さを測ってる。北へ行くほど高く、南へ行くほど低くなる。祖父さんに教わった」
「……緯度を、星で」
メルカは少し考えてから、自分も腕を伸ばし、拳を地平線に重ねてみた。肘が、曲がっている。
「肘は、まっすぐ」
俺は、後ろから手首を支えて、腕を伸ばしてやった。毛布の陰から出てきた手首は、細くて、まだ少し冷たかった。メルカの肩が、一瞬だけこわばった。腕は、引っ込めなかった。
小さな拳が、ぎこちなく星の方へ積み上がっていく。ひとつ、ふたつ。
「……ふたつと、少し」
「上出来だ」
俺は、手を離した。離してから、さっきから星ではなく、伸ばされた細い腕の先ばかり見ていたことに気がついた。
……空を読むのが仕事の人間が、何をやってるんだか。
「アレクさん」
「ん」
「あなたは、測らないのに、正確です」
「褒めてるのか」
「記録です」
メルカは真顔で言った。それから腕を下ろして、星を見上げたまま続けた。
「ゆうべ、窓でランタンを持っていたあいだ、測量器のことは、一度も考えませんでした」
峠の宿で目を覚ました昼、こいつは礼より先に、測量器に駆け寄った。
「順番が、直ったな」
メルカが、毛布の陰で小さく吹き出した。
明日は、東の斜面を下って、雨の森へ入る。測量の道筋は、東の森を測って峠へ戻り、西の砂漠を越えて南へ下る。いちばん南の端が、ウィンパーたちの行く先のワジだ。
小屋へ戻りかけて、メルカが指を折った。
「ワジまで、あと二十日です」
「数えてるのか」
「計画ですので」
東の空の低いところに、星の見えない帯が一本、横たわっていた。明日の、日が傾くころ、降る。




