第5話 『地図が違っていた。俺もな』
嵐の抜けた朝の空は、磨いたばかりの硝子みたいだった。
雲ひとつない。夜のうちに風が空の埃をすっかり掃き出して、月の山脈の峰々が、手を伸ばせば届きそうなほどくっきり見える。
その空の下を、土色の列が、峠の宿場へ下りてきた。
宿場じゅうの戸が開いていた。宿の者、鍛冶屋、市場の商人、ギルドの案内人たち。ゆうべの嵐を知っている者は、みんな表に出てきていた。きのう、この石畳の上で荷を下ろし、峠の猿だと笑った兵たちが、今朝は互いの肩につかまって、足を引きずりながら帰ってくる。
誰も、何も言わなかった。ただ、見ていた。
「あの坊主の空読みはな、峠じゃ子供でも知ってるんだ」
鍛冶屋の親父が、誰に言うともなく言った。言われた兵が、気まずそうに顔を伏せた。
リサが、宿の前に大鍋を二つ並べて待ち構えていた。
「並びな! 峠の規定量だよ!」
椀に、麦粥が山盛りによそわれる。蜜が一筋、ナツメヤシがひとつかみ。兵たちは椀を両手で包んで、湯気に顔を埋めるようにしてすすった。泣いている者もいた。粥が熱いせいだと、たぶん本人は言うだろう。
ウィンパーも、列に並んでいた。隊長だからといって、前に割り込みはしなかった。凍傷で赤く腫れた頬に湯気を当てながら、立ったまま三杯たいらげた。リサが四杯目をよそいながら、その背中をばん、と叩いた。粥がこぼれかけた。
「お代は、工兵隊の帳面につけとくよ!」
「……つけておいてくれ」
キシェンは宿の石段に座りこんで、空の椀を差し出していた。
「荷物持ちは、最後だよ」
「ゆうべ、綱を担いだのは誰だと思ってんだ……」
宿の前には、三脚が一本立っていた。測量器の覗き窓が、西の鞍部のほうを向いている。
その横に、メルカが立っていた。
目の下が、薄く青い。夜明けまで窓辺を離れなかったのだろう。ランタンの火は、もう消えていた。それでもまだ、柄を握っていた。
俺と目が合うと、メルカは小さくうなずいて、ランタンを足もとに置いた。かわりに、野帳を開いた。
宿場の真ん中で。工兵たちと、宿場の者たちの前で。
「……検証」
メルカは、読み上げた。よく通る声ではなかったのに、広場の誰もが、匙を止めて聞いていた。
「昨日の昼、案内人は、今夜は荒れる、と言いました。気圧計の数字が変わったのは、その四時間後です。案内人の予報、的中」
鉛筆が、さらさらと動く。
「北の稜線、西の縁に雪庇。今朝、峠から覗き窓で、崩れた跡を確かめました。地理院の地図には、記載なし」
粥の椀を持ったまま、ウィンパーが顔を上げた。
「工兵隊、全員帰還」
メルカは、そこで一度、鉛筆を止めた。それから、昨日の頁をめくった。
「もう一つ。昨日、この測量官の気圧計の数字が、案内人の予報を笑う材料に使われました。気圧計は、今の数字しか言いません。先のことを言ったのは、空のほうでした」
ゆうべ窓辺で引いた細い線を、メルカは指でなぞった。
「訂正します」
広場が、しんとした。
俺は、何も言わなかった。言うことは、もう全部、メルカの野帳に書いてあった。
◇
沈黙を破ったのは、ひょろ長い兵だった。
ダルシーが、粥の椀を両手で持ったまま、立ち上がった。そばかすの顔が、耳まで赤い。椀の中で、粥が揺れていた。
「……あの」
宿場じゅうの目が、ダルシーに向いた。ダルシーは一度口を閉じて、それからもう一度開いた。
「山猿なんて言って、悪かった」
声が裏返った。
宿場の誰かが、くすりと笑いかけて、やめた。
その時、ダルシーの頭に、大きな手が載った。
ウィンパーだった。ダルシーの頭をぐいと押さえて下げさせながら、自分は顔を上げたまま、俺を見た。
「いや、山猿でいい」
ウィンパーは、宿場じゅうに届く声で言った。昨日、宿の梁を揺らして笑った、あの声だった。
「ただし、山を知ってる猿だ。昨日の俺の笑いは、訂正する」
顔に出ないよう、奥歯を噛んだ。出すと、十四の朝の俺と同じ顔になる気がした。
ウィンパーが頭から手を離すと、ダルシーはすとんと座って、冷めかけた粥をかき込んだ。
ウィンパーは、俺の前まで歩いてきた。膝はつかなかった。頭も下げなかった。ただ、真っ直ぐに立って、言った。
「峠の案内人。名は」
「アレク」
「アレク」
ウィンパーは、名前を確かめるように繰り返した。それから、背中の真鍮の地図筒を、拳で一度、軽く叩いた。
「……地図が違っていた。俺もな」
それきり、言い訳は一つも足さなかった。
「工兵は、借りを忘れん」
「返すなら、リサの鍋に返してくれ。百人分だ」
「それも、帳面につけておいてくれ」
メルカが、野帳から一枚を外して差し出した。今朝の頁の写しだった。いつの間に清書したのか、几帳面な小さな字が、隅から隅まで埋まっている。
「これを、地理院へ。院長あてです」
ウィンパーは紙を受け取って、字を目で追った。それから丁寧に折りたたんで、地図筒の中にしまった。
「届ける。俺の報告にも書く」
そこへ、ギルドの古株の案内人が、杖をついてやってきた。リサが手配したのだ。谷の南側の、本当の道を下る案内だった。
「南のワジで、陛下の軍に合流する」
ウィンパーは、背嚢を担ぎ直しながら言った。
「南側の道でも、月が満ちる前には間に合う。……間に合わせる」
髭の副長が、キシェンの手を両手で握って振った。キシェンは、ゆうべの綱の跡が赤く残る手のひらを、照れくさそうにさすっていた。
土色の列が、ふたたび動きだした。今度は、北の稜線へは向かわなかった。峠の西へ、谷の南側へ。列の最後尾で、ウィンパーが一度だけ振り返って、片手を上げた。
列の中ほどで、ダルシーが、ぶんぶんと手を振っていた。
「いい男じゃないか。声が大きいのは、あたしの次くらいだけどね」
リサが、空になった大鍋を叩いて笑った。
◇
「悔しくないのですか」
列が見えなくなってから、メルカが言った。
「笑われて」
俺は、峠の西を見た。尾根の縁に、えぐり取られたような白い断面が、朝日を受けて青白く光っている。崩れたのは、庇のほんの一部だ。残りは、まだ宙に張り出していた。
「悔しかったさ。笑われるのには慣れてる。でも、慣れてるのと、黙ってるのとは違う」
俺は言った。
「峠の者の読みは、帝国の地図に勝てる。それを、帝国に認めさせる。地理院の地図の、この峠の西に、峠の者の線を一本、引かせる」
言ってから、自分でも少し驚いた。こんなことを口に出したのは、初めてだった。
空の大鍋を抱えて宿へ戻りかけていたリサが、足を止めて、俺の顔を見上げた。
「あんた、そういう顔をすると、ほんとに母親似だね。ストラも――」
言いかけて、リサは口をつぐんだ。一瞬だけ、赤銅色の眉の下で、目が揺れた気がした。
「……いいさ。行っといで」
リサは大鍋を抱え直して、宿へ入っていった。
メルカの鉛筆が、野帳の上で小さく動いた。
横で、キシェンが口笛を吹いた。
「大きく出たな。鼻の穴、ふくらんでるぞ」
「ふくらんでない」
「ふくらんでいました」
野帳から目も上げずに、メルカが言った。
……記録されていないことを祈る。
「出発は、昼です」
「寝てないだろ」
「測量は、日の高いうちに済ませるのが原則です」
キシェンは市場の端で、ドワーフの商人を相手に、黄色いチーズの塊を値切りはじめていた。稜線の弁当だそうだ。
昼まで、少しだけ眠った。起きて、稜線へ発つ前に、日誌を開いた。
千五百一日目。
――快晴。嵐、夜明け前に抜ける。工兵隊、百名、全員帰還。
――西の鞍部の雪庇、一部崩落。
――工兵隊、南のワジへ。
南のワジ。地図の上では、雨の降らない場所だった。
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