第4話 『あんたが立ってるのは、尾根じゃない』
風よけの岩陰に、キシェンと二人で背中を押しつけていた。
北の稜線へ上る道の、最後の大岩だ。ここから先は、尾根がむき出しになる。嵐のさなかに、あそこへ出る馬鹿はいない。出たら、風に剥がされて、それで終わりだ。
雪が、横から来る。外套の襟の中まで入ってきて、首筋で溶けて、すぐにまた凍る。キシェンの歯が、かちかちと鳴っていた。
「……なあ。ここ、峠でいちばん寒い場所だろ」
「二番目だ」
「一番は」
「この先の尾根の上だ」
「聞かなきゃよかった」
岩の縁から、下をのぞく。
雪と闇の底に、小さな灯りが一つだけにじんでいた。峠の宿の窓だ。あの灯りの下で、メルカが気圧計とにらめっこをしている。
風が、鞍部を鳴らしていた。
ごう、と唸る。切れる。また、ごう、と唸る。その切れ目が、少しずつ長くなっていく。
この先の尾根の上でも、百人が同じ風を聞いているはずだった。それがどこで鳴っているのかも、知らずに。
どれくらい待ったのか、わからない。指の先の感覚がなくなって、またうずきはじめて、またなくなった。キシェンは途中から、歯を鳴らすのをやめていた。ただ、宿の灯りを見ていた。
「アレク」
キシェンが、顎で下を示した。
宿の窓の灯りが、揺れた。
横に、一度。
二度。
三度。
俺は、息を止めて耳を澄ませた。
鞍部の唸りが、変わった。喉の奥から絞り出すような低い音が、ふっとほどけて、長いため息のような音になった。それきり、唸りは、戻ってこない。
頬を叩いていた雪が、横からではなく、上から落ちてくるようになった。
「行くぞ」
◇
尾根の上は、しんと静かだった。
ついさっきまで、ここで世界がちぎれるような風が吹いていたとは思えない。新しい雪が膝まで積もって、闇の中でほの白く光っている。雲の切れ間に、星が二つ三つのぞいていた。東の空の端だけが、ほんのわずかに薄くなりはじめている。
「静かすぎて、気味が悪いな」
キシェンがささやいた。
「黙って歩け。一時間しかない」
俺が先を歩き、綱を担いだキシェンが続く。
一歩ごとに、靴の先で雪を確かめた。踏む前に、軽く払う。押す。重さをかけてから、次の足を出す。
西の鞍部が近づくにつれて、確かめる回数が増えていった。二歩に一度が、一歩に一度になり、一歩に二度になった。キシェンは、俺の足跡を、そのまま踏んでついてきた。風の落ちた尾根には、二人分の息の音と、雪を踏む音しかなかった。
やがて、雪の上に、黒い影の群れが見えた。
工兵たちが、平らな雪の上に固まっていた。背嚢を風よけに積み上げ、互いの肩に身を寄せて、うずくまっている。腕に描いた苔の深緑が、霜で白く粉を吹いていた。何人かは、俺たちが近づいても顔を上げなかった。
その群れのいちばん西の端、平らな雪がそのまま闇へ続いていくあたりに、一人だけ立っている男がいた。
ウィンパーだった。
麦わら色の髪も眉も、真っ白に凍りついていた。片手に真鍮の地図筒を握って、西の闇を見下ろしている。夜が明けたらすぐに下りられるよう、隊の誰より先に、下りる道を探しているのだとわかった。
「……峠の、山猿か」
声は、昼間の半分も出ていなかった。それでも、笑おうとしていた。
「呼んだ覚えは、ないがな」
「呼ばれた覚えもない。風が戻る前に、ここを出る」
「夜が明けたら、下りる。地図では、この下に道が――」
「その道は崖だ」
ウィンパーの口が、止まった。
「ゆうべの風が、東から雪を運んで、尾根の縁の庇を、さらに宙へ押し出した」
俺は、ウィンパーの足もとを指さした。
「あんたが立ってるのは、尾根じゃない。尾根から宙に突き出した、雪の庇の上だ。下には、何もない」
「四人が落ちたのは、縁が脆かったからだ。地図では、ここは尾根の――」
ぴしり、と。
乾いた音が、ウィンパーの靴の下を走った。
俺は跳んで、その襟首をつかみ、力いっぱい引き戻した。
ほとんど同時だった。
ウィンパーが立っていた場所から先、白い雪原の縁が、まるごと音もなく沈んだ。差し渡し十歩ほどの雪の庇が尾根から剥がれ、西の谷へ落ちていく。少し遅れて、谷底から、どう、と重い音が這い上がってきた。白い粉雪が、夜明け前の薄明かりの中に煙のように舞い上がる。
ウィンパーは、俺に襟首をつかまれたまま、雪の上に尻をついていた。
襟をつかんだ指が、ほどけなかった。四年前の朝、この手は、母さんの背中を見送っただけだった。
さっきまで隊長が立っていた場所には、ぽっかりと、群青の空が口を開けていた。
誰かが、喉の奥で短く息を吸った。工兵たちの誰も、声を上げなかった。
「……あれが、雪庇だ」
ウィンパーは、答えなかった。地図筒を握る指に、力がこもったままだった。
◇
「岩棚は、どこだ」
髭の濃い男が、這うようにして、崩れ残った縁の東寄りまで案内してくれた。副長だという。雪の切れ目から下をのぞくと、背丈の三倍ほど下の岩の出っ張りに、人影が四つ、身を寄せ合っていた。
キシェンが綱の端を、尾根の岩に二重に巻きつけて縛った。結び目に体重をかけて、一度、ぐいと引く。それから、残りを下へ投げた。
「一人ずつだ! 腰に巻け!」
最初に綱をつかんだのは、ひょろりと手足の長い影だった。
「引け!」
俺とキシェンと、工兵が三人、綱に取りついた。その後ろに、いつの間にか、ウィンパーが加わっていた。凍った手袋で綱を握り、誰よりも深く腰を落としていた。
縁から、そばかすの浮いた顔が出た。ダルシーだった。雪の上に転がり出て、そのまま起き上がれなかった。何か言おうとして、歯の根が合わずに、やめた。
「次!」
二人目。三人目。四人目は、足をくじいていた。綱を胸の下に回させて、ゆっくりと引き上げた。
東の空が、白くなりはじめていた。
「ここから出る」
俺は、工兵たちに向かって言った。
「一列だ。俺の足跡だけを踏め。西の縁には、一歩も寄るな。前の奴の背中だけ見てろ」
「聞いたな。案内人の足跡だけを踏め」
ウィンパーが、かすれた声で繰り返した。それでも工兵たちは、その声で、一人また一人と立ち上がった。
俺は先頭に立って、尾根の東寄りを歩きだした。風上の側だ。雪は浅く、硬く締まっている。それでも一歩ごとに、靴の先で確かめた。後ろで、たくさんの足音が、俺の足跡を一つずつ踏んでいく。足をくじいた一人は、仲間が二人がかりで背負っていた。
列のいちばん後ろには、ウィンパーがついた。誰に言われたわけでもなかった。
◇
風よけの大岩まで戻ったところで、背後から風が戻ってきた。
もう、雪は運んでいなかった。雲の尾を西へ掃いていくだけの、乾いた風だった。
岩陰で、数えた。九十八。九十九。宿で毛布にくるまっている一人を足して、百。
凍傷の者が十人あまり。足をくじいたのが一人。打ち身とすり傷は、数えきれない。
死んだ者は、一人もいなかった。
山の向こうから、朝日が尾根に届いた。
隊長は、自分が立っていた場所の、何もない青を、いつまでも見ていた。




