第3話 『夜明け前に一時間だけ、風が落ちる』
その夜、峠は荒れた。
日が沈むのと同時に、笠雲は山頂を呑み込むほどに膨らみ、真夜中には、雪混じりの横殴りの雨が宿の窓を叩いた。風が鞍部を抜けるたびに、建物全体がみしみしと鳴った。
晩飯は、リサが鍋ごと抱えてきた羊の煮込みだった。豆と根菜と骨つきの肉がごろごろ入った、腹にたまるやつだ。蓋を取ると湯気がどっと噴き上がって、雨の音が少しだけ遠のいた。メルカは二杯でやめようとして、リサに三杯目を盛られた。
「規定量を超えています」
「峠の規定じゃ、これが一人前だよ!」
メルカは、結局きれいに平らげた。食べているあいだも、窓が鳴るたびに匙がぴたりと止まって、目だけが窓へ行く。何も言わないところが、どんな言葉より雄弁だった。
リサも、北の窓を見た。
「あの兵隊さんたち、今ごろ稜線の上だね」
誰も、返事をしなかった。
暖炉の薪が、ぱちりと爆ぜた。
◇
暖炉の火を見ながら、観測日誌をつけた。
日誌の頁をいちばん初めまで戻せば、四年前のある冬の朝の行がある。
――雷のない朝に、遠い轟き一つ。
あの冬の朝、母さんは山へ出る前に、俺に空を聞いた。今日は崩れるか、と。
崩れない、と俺は答えた。風は弱く、雲は高く、雪はよく締まっていた。十四の俺は、自分の読みに少しも迷わなかった。
母さんは笑って、俺の頭をくしゃりと撫でて出かけていった。
あの朝の空を、俺はまだ読み違えたままでいる。
その頁だけは、いつもすぐに閉じることにしている。
階段がきしんだ。二階からは、キシェンのいびきが、嵐に負けない音で響いている。
毛布を肩にかけたメルカが、下りてきた。手には野帳と、気圧計。
「……眠れなくて」
メルカは窓辺に立って、荒れ狂う外を見つめた。それから、気圧計を見た。針は、夕方から大きく沈んでいた。
「夕方までは、本当に安定していたんです。数字が変わったのは、あなたが『荒れる』と言ってから、四時間も後でした」
「だろうな」
「どうして、わかったのですか」
俺は日誌から顔を上げずに答えた。
「朝から、山の肩の雲が増えてた。一枚が二枚になって、昼には幾重にも重なって、そのあと頂に笠がかかった。笠が出ると、半日もしないうちに天気が崩れる。湿った風が山にぶつかって、持ち上げられて、冷えて雲になる。風が強くて湿っているほど、笠ははっきり出る。数字が変わるより先に、空の形が変わるんだ」
当たったところで、少しも気分はよくなかった。顔を上げなかったのは、北の稜線の上にいる百人のことを考えていたからだ。
メルカは、窓の外の闇と、手の中の気圧計を、何度も見比べた。それから野帳を開き、昼間に書いた頁の上に、細い線を一本引いた。
「訂正します」
「律儀だな」
「記録は、正確でなければ意味がありません」
メルカは線の横に、小さな字で何か書き足した。俺の位置からは読めなかった。
それから、二階へは戻らなかった。窓辺の椅子に腰を下ろして、気圧計を膝に載せた。
窓の外で、風がまた鞍部を鳴らした。
◇
真夜中を、だいぶ過ぎたころだった。
宿の扉が、どん、と鳴った。
風の音じゃない。もう一度。今度は、もっと弱く。
閂を外すと、雪と一緒に、土色のかたまりが転がり込んできた。
若い工兵だった。眉にも睫毛にも氷が張りついて、唇は紫を通り越して灰色だ。歯の根が合わず、言葉が言葉にならない。
メルカが毛布を広げ、二階からキシェンが転げ下り、奥からリサが寝間着のまま飛び出してきた。濡れた上着をはがして、暖炉の前に転がす。湯をひと口すすらせて、ようやく兵の口が動いた。
「……西の、鞍部の、手前で……」
隊は、日暮れまでに稜線を西へ進んだ。風と雪で前が見えなくなったころ、平らな雪の上に出た。そこで、足もとの縁が崩れた。何人かが、雪ごと下の岩棚に落ちた。呼べば、声は返ってくる。上がっては、こられない。
「落ちたのは、何人だ」
「……四人。ダルシーも、です」
ひょろ長い兵の顔が浮かんだ。膝を叩いて、山猿と繰り返していた顔だ。
「隊長は」
「……縁の、いちばん先に。地図の筒を、抱えて。夜が明けたら、地図の道を、下りる、と。月が満ちる前に、南の陣へ、着かねばならん、と」
兵は、毛布の中で身を縮めた。
「副長が、俺を、下ろしました。峠に、案内人がいるからと。……隊長は、知りません」
隊長は、助けを呼んでいない。
あの笑い声の男は、雪の縁の上で、まだ地図を握っているのだろう。
メルカが、俺を見た。リサも、キシェンも、見ていた。
俺は窓を開けた。雪が顔を叩く。目を閉じて、耳を澄ませた。
風は、鞍部を抜けるたびに低く長く唸っていた。その唸りの切れ目が、さっきより、息ひとつぶん長い。雪の匂いも、わずかに乾いてきている。笠雲を作っていた湿った風の、いちばん重いところが、もう山を越えかけている。
「夜明け前に一時間だけ、風が落ちる」
窓を閉めた。
「どうして、夜明け前なのですか」
「嵐の尻尾が山を越える時、風はいっぺん息を吸う。次の風を吐き出す前に、少しのあいだだけ止まる。峠の案内人は、それを山の息つぎって呼んでる。長くて、一時間だ」
俺は、外套を二枚重ねた。
「鞍部の鳴り方が変わったら、それが合図だ。その一時間のうちに行って、連れて戻る」
メルカが、膝の上の気圧計に目を落とした。夕方から沈み続けた針が、目盛りのいちばん下のあたりで、細かく震えている。
「……針が底を打って、上がりはじめた時ですね」
俺は、メルカを見た。
メルカも、俺を見ていた。
空を読んだ答えと、針を読んだ答えが、同じところを指していた。
「窓で、ランタンを持っててくれ。針が上がりはじめたら、三度振れ。稜線の岩陰じゃ、風の音を聞き違えることもある。二つそろったら、行く」
「はい」
メルカは、すぐに答えた。
「百人か。綱が足りねえな」
キシェンが、長靴の紐を締め上げながら言った。
「落ちたのは四人だ。残りは、歩かせる」
リサは、もう竈に薪を放り込んでいた。それから壁の釘から太い綱の束を下ろして、俺の胸に押しつけた。
「持ってきな。ギルドでいちばん長いやつだ。鍋は、あたしが見とく。百人分、炊いといてやるよ」
キシェンが、俺の手から綱の束を取り上げて、自分の肩に担いだ。
「荷物持ちの出番だろ」
あの男に、峠の空を見せてやりたかった。
外套の襟を立てて、戸口へ向かう。
その袖を、後ろから引かれた。
メルカだった。火を入れたランタンを片手に、もう片方の手で、俺の袖をつかんでいる。指が、白くなっていた。
「灯りを、三度振ります。見落とさないでください」
「見落とさない」
メルカは、指をほどいた。
扉を開けると、雪混じりの風が、宿の灯りを一度に吹き消しかけた。
夜明け前の、一時間。空がくれるのは、それだけだ。




