第2話 地図を信じる工兵隊長、空を読む山猿を笑う
峠の宿の暖炉の前で、少女が目を覚ましたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
毛布の下から、眼鏡のずれた顔が出てきた。天井を見て、暖炉を見て、俺を見て、それから、がばりと跳ね起きた。
「測量器は!」
「そこの壁に立てかけてある。三脚の脚は縮めておいた」
おはよう、のかわりがそれか。
少女は測量器に駆け寄って、目盛りを指でなぞった。どこも壊れていないとわかると、ようやく長い息を吐いた。
「……ありがとうございました」
「礼を言う順番は、だいぶ変わってるけどな」
粥をよそって差し出すと、少女は測量器を覗く時と同じ真剣な顔で椀の中身を検分してから、匙を口に運んだ。椀は、あっという間に空になった。
「……おかわりは、ありますか」
「ある」
二杯目は、ゆっくりと味わいはじめた。
「甘い……。砂漠のナツメヤシですね。それに、この蜜は森の……」
「峠で倒れる旅人は、たいてい三つのうちのどれかだ。腹が減ってるか、寝てないか、峠の風をなめてるか。あんたは三つ全部だった」
「……反論の余地がありません。帝国地理院、測量局の測量官、メルカと申します」
「アレク。この峠の案内人だ」
宿の扉が、勢いよく開いた。
「起きたかい、帝国のお嬢さん!」
冷たい風と一緒に、赤銅色の三つ編みが飛び込んできた。リサだ。後ろから、キシェンがにやにやしながら顔を出す。
リサは毛布の上から、メルカの肩をばんばん叩いた。藍と赤褐色と深緑に染まった指先が、叩くたびにひらひらと色を散らす。
「峠のてっぺんで倒れるなんて、たいした度胸だね! 気に入った! 依頼は受けたよ。月の山脈の稜線を、東と西、両側から測りたいんだってね」
「は、はい。帝国の、ある大きな計画のための下調べです」
「案内人はアレクだ。荷物持ちに、キシェンをつける」
「荷物持ちって言い方はないだろ」
メルカが、すかさず野帳を開いた。
「荷物持ち、キシェンさん」
「書かないでくれる!?」
「記録ですので」
◇
扉が、さっきのリサよりもう一段勢いよく開いた。
「染料師はいるか! 苔の深緑を、百人分だ!」
声が、宿の梁を揺らした。苔の深緑は、山の寒さよけに腕に描く色だ。
肩幅の広い男だった。日に焼けた四角い顔に、麦わら色の短い髪、土色の上着。戸口には、同じ上着の兵が何人も首を突っ込んでいた。宿場の入口で俺を猿と呼んだ、ひょろ長い若い兵もいる。
男は銀貨の袋を卓に置くと、ついでのように、背中の真鍮の筒から地図を一枚抜いて広げた。
「帝国工兵隊の隊長、ウィンパーだ。参謀本部の命令でな」
太い指が、地図の端に挟んだ命令書を叩いた。次の月が満ちる前に、南の陣へ。
「南の陣は、水がなけりゃ三日ももたん。俺たちが掘りに行く。ふもとの街道を回れば、半月遅れる。だから、ここを行く。北の稜線から西の鞍部へ出て、谷の北側を下る。地図に、そう書いてある」
俺は窓から空を見た。月の山脈の肩に、朝は薄く一枚だけだった雲が、今は幾重にも重なりはじめている。
「やめといたほうがいい」
ウィンパーの目が、初めて俺に向いた。
「今夜は荒れる。稜線の西の縁には雪庇が張り出してる。それに、その道は谷の南側だ。北側は崖になってる」
宿の中が、一瞬静かになった。
それから、ウィンパーが笑った。腹の底から出る、よく通る声。宿場の入口で聞いた、あの笑い声だった。
「峠の山猿の勘で、帝国の工兵が足を止めるか!」
戸口の兵たちが、どっと笑った。いちばん大きく笑ったのは、あのひょろ長い兵だった。膝を叩いて、「山猿!」と繰り返している。屋根の雪に埋まったことは、もう忘れたらしい。
「ダルシー、笑いすぎだ」
そう言うウィンパーも、まだ笑っていた。意地の悪い笑い方ではなかった。子供が大人の真似をして天気を言い当てようとしたのを見た時の、あの笑い方だ。そのほうが、よほど始末が悪い。
「案内人。工兵はな、地図の上を歩くんだ。測って、描いて、そのとおりに道を通す。それが帝国だ」
メルカが、懐から小さな真鍮の気圧計を取り出した。針を確かめて、首をかしげる。
「数字は、安定しています。数字の上では、晴れです」
悪気は、どこにもなかった。測ったものを、そのまま言っただけだ。
「ほら、測量官殿もそう言っている!」
ウィンパーが手を打った。兵たちがまた笑いかけた、その時。
「私は、今の数字を申し上げただけです」
メルカの声は小さく、間を置かなかった。
「笑う材料に、使わないでください」
ウィンパーは、ぱちりと瞬きをした。それから、きまり悪そうに頭をかいた。
「……違いない。失礼した、測量官殿」
詫びるところは、詫びる男らしい。ただ、地図を巻く手は少しも迷わなかった。
「日のあるうちに、稜線へ上がる。行くぞ」
「隊長」
戸口で振り返った背中に、言った。
「行くなら、西の縁から離れて歩け。平らに見えるところほど、危ない」
「覚えておこう、案内人」
ウィンパーは、背中で手を振った。覚える気のある振り方ではなかった。
土色の背中が、ぞろぞろと戸口から出ていった。リサが、銀貨の袋を手のひらで量りながら、その背中を見送っていた。
「……で、こっちの出発は、いつにする?」
「明日の朝だ」
メルカは気圧計をしまわずに、俺を見上げた。
「測量は、正確さが命です。案内人の方には、私の指示に従っていただきます」
「山の上じゃ、山の指示に従ってもらう」
「山は指示をしません」
「するさ。聞く耳があれば」
メルカは、手の中の気圧計に目を落とした。
「空は、何も言っていません」
「言うさ。空はいつでも、先に言う」
「……では、もし今夜が晴れていたら、あなたの判断は誤りだったと、野帳に記録させていただきます」
「好きにしろ」
「します」
メルカは本当に野帳を開いて、几帳面な小さな字で何かを書きつけた。
笑われるのには、慣れている。
慣れているからといって、腹が立たないわけじゃない。
俺は戸口に出て、北の頂を見上げた。
峰の風下に、綿くずのような雲がちぎれては消えている。山の肩の雲は、朝より低く、厚い。湿った風が、もう頂の高さまで押し上げられてきているのだ。
「宿場の鐘が次に鳴るころ、あの頂に笠がかかる」
石畳を行く列の後ろのほうで、兵たちがそれを聞きつけて、また笑った。ダルシーが、両手で頭の上に笠を作ってみせた。
列の先頭が、宿場のはずれの石の門をくぐった。
その時、鐘楼の鐘が鳴った。
ごうん、と。
その音がまだ谷に残っているうちに、頂の上に、白いものがふわりと湧いた。
振り返った兵の何人かが、笑いを途中で呑み込んだ。真っ先に黙ったのは、ダルシーだった。頭の上の笠を、そろそろと下ろしている。
列の先で、ウィンパーが足を止めて、頂を見上げた。それから地図筒を背負い直し、また歩きだした。命令書には、月が満ちる前に、とある。止まれとは、どこにも書いていない。




