第1話 プロローグ 千五百日目の空
雨は、一滴も降っていなかった。
月は西の砂の向こうに沈み、星が降るような砂漠の夜だった。干上がった川の底いっぱいに、焚き火の残り火が点々と散らばっている。皇帝の軍、八千。そのほとんどが、そこで眠っている。
夕方、その兵たちは、崖の上へ移る俺たちを指さして笑った。臆病者どもが、砂漠の真ん中で雨が怖くて崖に登るとさ、と。
笑ったのは、兵だけじゃない。
「案内人の勘で、八千の陣は動かさない」
参謀の天幕で、参謀長は声も立てずに笑って、卓の地図の上にペンを置いた。帝国が十年かけて測り上げた地図だ。あの山の雨は、この川には来ない。地図の上では、そうなっていた。
間違っていたのは、地図のほうだった。
日が傾きはじめたころ、首筋の産毛が逆立った。東の山脈の上に、白い塔のような雲が立っていた。根もとだけが、墨を流したように黒い。あの雲の下に落ちた雨が、どこへ流れてくるか。俺には、それが読めた。
隣で、銀縁の眼鏡の測量官――メルカが、帳面の数字を指でなぞった。五十キロ。十時間。
――今夜、来る。
参謀長が動かないなら、動く奴を探す。
心当たりは、一人だけあった。峠で一度、俺を山猿と笑った男だ。
そうして崖の上に移った者は、思っていたより、ずっと少なかった。
「外れてほしい、と思っています」
膝を抱えたまま、メルカが言った。
「私の計算が、間違っていてほしい。明日の朝、皆に笑われて、それで終わってほしい」
俺も、同じことを考えていた。
崖の下の涸れ川――砂漠の言葉でいうワジの底で、残り火がひとつ、またひとつと消えていく。
東の山脈の上で、空が音もなく白く光る。遠すぎて、雷の音は届かない。
夜半を過ぎたころ、上流のほうから、ふっと冷たい空気が流れてきた。湿っていた。雨に打たれた土の匂い。この乾いた砂漠のどこにもあるはずのない匂いだった。
足の裏が、かすかに震えはじめた。
それから、音が来た。
ごう、と。
見えない何かが、乾いた川を駆け下りてくる。眠っている何千という兵に向かって。
「……来た」
◇
――話は、あの夜より前にさかのぼる。
峠の、ある朝。俺は、いつものように空を見ていた。
四年前の冬に、一度だけ空を読み違えた。それから、峠の空を一日も欠かさず日誌につけている。今日で千五百日目だ。
小屋の前の岩で、日誌を開く。気温、少し低め。風、東から弱く。雲、月の山脈の肩に薄いのが一枚。東は霧の森、西はまだ山の影に沈む砂漠、頭の上には万年雪。コル峠からは、全部いっぺんに見える。
朝飯は、高原麦の山羊の乳粥。刻んだナツメヤシに、森の花の蜜をひと筋。焼けた石の上では、麦粉の平焼きがぷくっと膨らむ。
峠を渡る風が、前髪をあおった。一房だけ混じった若白髪が銀色に光って、目の前にかかる。母さんはそれを見るたびに、なぜか少しだけ寂しそうな顔をして、指で俺の髪をかき上げた。
「うまそうな匂いがすると思ったら」
砂色の癖っ毛をした長身の男が、鼻をひくつかせながら坂を上ってきた。同じギルドの案内人、キシェンだ。人懐っこい垂れ目で、笑うと八重歯がのぞく。
「お前の分はない」
「つれないこと言うなよ。毎朝、味見してやってるだろ」
キシェンは勝手に二つ目の椀に粥をよそった。
俺は、最初に焼いて取り分けておいた一枚を、少し離れた平たい岩の上に置いた。
「また、それか」
「峠の神様の分だ」
母さんがいつもそうしていた。朝飯の最初の一枚は、峠の神様に。その一枚は、目を離したすきになくなっている。
峠の西に目をやると、尾根から張り出した雪の庇が、朝日を受けて白く光っていた。春が来るたびに崩れ落ちる、西の鞍部の雪庇だ。今年も、もうすぐその季節が来る。
「アレクー! キシェンー!」
宿場町の方から、雷みたいな声が響いた。ギルドの二階の窓から、赤銅色の三つ編みが身を乗り出している。峠でいちばん声の大きい、ドワーフの染料師、リサだ。
「いつまで朝飯食ってんだい! 帝国のお客さんが二組だよ! 測量士と、兵隊が百人! 測量士のほうは、一番腕のいい案内人をつけろってご指名だ! 空読みのアレク、あんたの出番だよ!」
腰を上げる。岩の上の平焼きは、もう消えていた。谷から上がってきた朝霧の残る岩陰で、灰色の何かが動いた気がした。今朝の神様は、ずいぶん食いしん坊らしい。
東の森から続く峠道を、紺色の小さな人影が一つのぼってくる。背中には、自分の体ほどもある測量器。足取りはふらふらで、それでも一歩ずつ律儀に。そのずっと下に、土色の長い列が蟻の行列みたいに小さく見えていた。
「キシェン。宿に、湯と粥を頼む。あの子、峠のてっぺんまで持たない」
◇
急坂の途中で追いつくと、少女と言っていい年頃だった。帝国の役人が着る紺の制服に、細い銀縁の眼鏡。亜麻色の髪はきっちりと三つ編みにまとめてあって、一筋の乱れもない。乱れていないのは髪だけで、唇は紫、指先は真っ白、体は測量器の重みで前のめりに傾いている。
「峠の方ですか。この先の鞍部の標高を測りたいのですが、基準点はどこにありますか」
挨拶より先に、基準点。
「……その前に、宿で温まったほうがいい。この風は、そういう格好の人間には毒だ」
「お気遣いなく。測量は日の高いうちに済ませるのが原則です」
少女は三脚を立てはじめた。かじかんだ指で、ねじがうまく回らない。それでも回す。
覗き窓に目を当て、紙の束――野帳というやつだろう――に細かな字で数字を書きつける。その字が、だんだん大きく乱れていく。
袖口から、少女の左腕がのぞいた。手首から肘の方へ、赤黒い文様が、平野をのたくる大河みたいに這っている。洗っても落ちない、皮膚の奥に彫り込まれた色。
その文様が、冷たい風に当たったとたん、熱を持ったように赤く浮かび上がった。帝国の偉い連中が彫るという、血彫りだ。
「……あれ」
少女が、小さく首をかしげた。
「数字が……合わない……」
そのまま、ことりと横に傾いた。
俺は、測量器ごと倒れかけた体を受け止めた。軽い。氷みたいに冷たい。
「器具……器具は……」
「わかってる。器具も運ぶ」
俺は少女を背負い、測量器を胸に抱えて坂を下りた。
宿場の入口で、土色の列と行き合った。
揃いの土色の上着に、背嚢とつるはし。帝国の兵が百人ばかり、峠の石畳いっぱいに広がって荷を下ろしている。
「おい、見ろよ。峠の猿が、帝国の娘を担いでるぞ」
ひょろりと背の高い若い兵が、そう言った。鍛冶屋の軒下で、積み上げた背嚢にもたれている。
どっと笑いが起きた。
その中で、ひときわ大きな声で笑う男が一人いた。人垣の向こうで、顔は見えない。腹の底から出る、よく通る笑い声だった。
俺は、兵の頭の上を見た。
鍛冶屋の屋根は南向きで、朝日をまともに浴びている。軒先のつららから落ちる雫が、さっきより速い。温まった屋根板の上で、雪の底が解けはじめているのだ。屋根の雪に細いひびが一本、横に走った。みし、と軒がきしむ。
「そこ、どいたほうがいい」
通りしなに、それだけ言った。
「猿が、人間さまに指図か?」
兵はにやにや笑って、背嚢にふんぞり返った。
ひと呼吸。ふた呼吸。
どさり。
屋根の雪がひと塊になって滑り落ち、兵を背嚢ごと呑み込んだ。
雪の山から長い脚が二本、じたばたと突き出した。
「ダルシー! 猿の言うことは聞いとけ!」
人垣の向こうの、あのよく通る笑い声が、今度は雪の山のほうを向いていた。
雪の中から、ダルシーが首を振り振り顔を出した。けがはなさそうだった。
俺は足を止めずに、宿の戸をくぐった。猿で結構だ。屋根の雪も読めない人間さまより、ずっといい。
少女を暖炉の前に寝かせてから、朝の行の下に、書き足した。
――晴れ。ただし、月の山脈の肩の雲が二枚に増えた。夜は、荒れる。
――帝国の測量官、一名。数字が合わないそうだ。
――帝国の工兵、百名。よく笑う。
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