第29話 『水、増えた。三日前から』
「頭の中で、ドワーフが鉱石を掘ってる」
千六百二十一日目の朝。坑道の入口の前で、キシェンがこめかみを押さえてうめいた。
「ゆうべの酒か」
「ゆうべの、リサだ」
「あたしのせいにするんじゃないよ。勝負を挑んだのは、あんただろ」
リサが、キシェンの背中をばんと叩いた。キシェンは、その場にしゃがみ込んだ。
坑道の口は、段々の家並みのいちばん上の、岩壁の根もとに開いていた。人の背丈より少し高いくらいの、四角い黒い穴だ。同じような口が、岩壁に沿って、ほかに四つ並んでいる。五つの坑道が、一本の鉱脈を、山の中の別々の場所から追いかけているのだという。その穴の奥から、ひんやりした空気が漂い出ていた。外は朝から汗ばむほど暖かいのに、穴の前だけ、峠の朝みたいに涼しい。
「天然の氷室だな」
キシェンが、二日酔いの頭を、穴の冷気の中へ突っ込んだ。
「浅いところの岩は、夏でも冷たい」
ヴュルムが、ランプに火を入れながら言った。
「だが、深く下りれば、話は別だ」
年かさの測量官が、自分の地図の筒を、大事そうに脇に抱え直した。
◇
坑道は、まず山の腹へ横に掘り進んでから、斜めに下りはじめた。
頭の上と両脇には、太い支え木が、等しい間隔で並んでいる。ランプの光が届くのは、ほんの数歩先までだった。
梯子を下り、また斜めの坑道を下る。下るほど、空気は変わっていった。湿って、ぬるい空気が肌にまとわりつく。ヴュルムの言ったとおりだ。
長い袖の下で、腕が汗ばんだ。袖をまくりたい。まくれない。人前だ。
斜めの坑道の途中、三つ目の梯子を下りたところで、道が、鉄の格子で塞がれていた。
床から天井まで、親指ほどの太さの鉄の棒が、縦にびっしりと並んでいる。真ん中に、扉。扉には、拳ほどもある錠前がかかっていた。
格子の前の段のいちばん上、壁の根もとに、細い穴が一つ、黒い口を開けていた。坑道のいちばん奥へ風を送る、風抜きの竪穴だ。
ヴュルムが、腰の帯から鍵を外した。黒い鉄の、重そうな鍵だった。錠前が、がちん、と鈍い音を立てて開いた。
俺たちが格子をくぐると、ヴュルムは扉を閉め、また鍵をかけた。ほかの四つの坑口の斜坑にも、これと同じ格子があって、同じ鍵を、それぞれの監督が帯に下げているのだという。
格子の向こうに、人がいた。
狭い坑道の、ランプの灯りの輪の中で、ドワーフたちが岩を掘っていた。つるはしを振るう音。崩した岩を籠に詰める音。誰も、こちらを見なかった。
背の低い、肩幅の広い男たち。ただ、ドワーフの顎にあるはずの濃い髭が、みんな、根もとから短く刈られていた。
「クラトンの捕虜だ」
ヴュルムが、ぼそりと言った。
「国境の小競り合いで、帝国の兵が捕まえた。氏族が買い取って、ここで使っている」
捕虜、とヴュルムは言った。買い取って、使っている。峠では、それを奴隷と呼ぶ。
もっと奥、いちばん深いほうの暗がりには、別の姿があった。長い尾。鱗の背。リザードマンだ。
「蜥蜴は、いちばん下だ。下ほど温かい。寒い持ち場に回すと、すぐ動けなくなる」
ヴュルムは、鍛冶屋が鉄の性質を語るみたいに言った。
誰の手首にも、同じ印が彫られていた。三角を二つ重ねた、山の形。ヴュルムの帯の、銅の糸の縫い取りと同じ印だ。
「王国では、人を奴隷として使うことを禁じていると聞いていたが」
年かさの測量官が、感心したようでも、咎めるようでもない声で言った。
「ここは、王国じゃない。帝国のやり方で掘る」
ヴュルムは、短く答えた。
「帝国の鉱山なら、どこでも奴隷が掘っている」
若いほうの測量官が、誰に言うでもなくつぶやいて、目をそらした。
つるはしの音の合間に、低い歌が聞こえてきた。捕虜の誰かが、岩を打つ拍子に合わせて口ずさんでいる。短い節を、何度も何度も。
リサの唇が、その節をなぞって、かすかに動いた。
それから、ぎゅっと結ばれた。染料に染まった指が、三つ編みの先を、白くなるほど握っていた。ランプの灯りの中で、リサの顔は、どの坑夫の顔よりも石に近かった。
「……三十一人」
後ろで、メルカが小さく言った。野帳を開いて、鉛筆で一つずつ、印をつけていた。
◇
いちばん深い坑道の突き当たりで、壁が泣いていた。
岩の割れ目から、水が染み出している。細い筋になって壁を伝い、足もとに掘られた溝に集まって、坑道の隅の溜めへ流れ込んでいく。溜めは、人の背丈ほどの深さの穴だった。その縁から斜めの坑道の上へ、リザードマンたちが一列に並んで、革の桶を手から手へ送っていた。汲んで、渡して、汲んで、渡して。上の坑道の排水の溝まで、休みなく。
溜めの真上の天井に、四角い口が開いていた。奥は、鉱脈を追って上へ掘り上げてある。そのてっぺんの暗がりから、かすかに風が下りてきていた。
足の裏で数えた上り下りを口にすると、メルカが野帳に、坑道を横から見た形を描いた。斜めに下る斜坑。格子。溜めまで下りてから、天井へ掘り上げた奥。段の上の竪穴が、岩の中を抜けて、そのてっぺんへ上から下りる線。
メルカは、格子の扉の上の横木から、横へ一本、細い線を引いた。線は、掘り上げのてっぺんに、ほぼ触れた。
「横木と、奥のてっぺん。ほぼ、同じ高さです」
水が来たら、この奥で最後に沈むのは、あそこだ。
俺は、壁の水に指を浸した。
冷たかった。
指の骨が痛むほど冷たい。峠の雪解けの沢の冷たさだ。坑道の空気は、汗ばむほど温かいのに。
「春は、山が汗をかく」
ヴュルムが、俺の手もとを見て言った。
「毎年のことだ。夏が過ぎれば、乾く」
「この水、いつもこんなに冷たいのか」
ヴュルムは答えなかった。答えるほどのことじゃない、という顔だった。
桶を送る列の端で、若いリザードマンが、俺のほうを見ずに、帝国の言葉でかすかにつぶやいた。
「水、増えた。三日前から」




