第30話 『顧問殿に、何がわかる!』
そのつぶやきを、列の上にいたドワーフの坑夫頭が聞きとがめた。じろりと見下ろされて、若いリザードマンは口を閉じ、また桶を送りはじめた。
「メルカ。桶を一つ、借りられるか」
メルカは、俺が何を言いたいのか、すぐにわかったようだった。空の桶を受け取ると、壁の筋のいちばん太いところの下に、口を当てた。
「数えます」
一。二。三。メルカの声が、坑道の闇に、振り子みたいに等しい間隔で刻まれていく。
桶が満ちたのは、二百四十を数えた時だった。
メルカは、その数字を野帳に書きつけた。日付と、時刻と、場所。壁の筋の形まで、小さな絵にして。
◇
昼過ぎに坑口へ上がると、外の光が、目に痛かった。
上の坑道の若い坑夫たちが、鉱石の籠を背負って、谷へ下りていくところだった。近道は、岩壁の端から斜面の浅い溝を下る道だ。
溝を、目で上へたどった。斜面の下のほうに、雪の白い縁がある。その下に、雪の退いたばかりの、黒く濡れた石の帯。朝のうちは岩壁の影に入っていたその帯に、今、日が回ってきたところだった。
峠の春なら、昼過ぎの沢筋は歩かない。夜のあいだ石を留めていた氷が、日に温められて、解ける。
俺は、籠を背負った先頭の若い坑夫の前に立った。
「少し、待ってくれ。雪の縁の下から、石が来る」
「顧問殿。ここは、毎日通る道です」
若い坑夫は笑って、溝へ足を踏み出した。後ろから、桶の列の上で若いリザードマンを黙らせた、あの坑夫頭が上がってきた。
「坑道の外まで、ご指図か」
坑夫頭がそう言った時、ぱらぱらと、乾いた音がした。
黒い帯の下から、小石がいくつか、溝の中を跳ねて下りてきた。俺は、若い坑夫の籠の紐をつかんで、後ろへ引き戻した。
次に来たのは、人の頭ほどの石だった。溝の底で二度跳ねて、さっきまで若い坑夫の足があった岩の角を削り、谷へ落ちていった。そのあとを、拳ほどの石が、ばらばらと追いかけていった。
音がやむまで、誰も動かなかった。
「……旦那の、言うとおりだった」
若い坑夫は、籠を背負ったまま、削れた岩の白い傷を見ていた。
坑夫頭は、斜面の黒い帯を見上げた。それから、俺を見た。顎で、岩壁の下を回る遠い道を指した。籠の列は、そちらへ回っていった。
◇
翌朝、千六百二十二日目。
坑道の上の斜面を見上げると、雪の白い縁が、また上がっていた。ここへ着いた日には坑道の口のすぐ上まであった雪が、今は斜面の半ばまで退いている。
もう一度、いちばん深い坑道へ下りた。
壁の水は、濁っていた。
昨日は透き通っていた水が、薄い茶色に曇っている。谷口の川の白さとは違う、泥の色だ。
「数えます」
メルカが、格子の奥の同じ場所に、同じ桶を当てた。
百二十五で、満ちた。
メルカの鉛筆が、止まった。
「……ほぼ、倍です」
メルカは、昨日の頁と今日の頁を、何度も見比べた。それから顔を上げて、溜めのほうを見た。
溜めの縁の柱には、水の高さを測る刻みが彫ってあった。今朝の水面は、坑夫たちが昨日の夕方に引いた炭の線より、手のひら一枚ぶん上にあった。桶の列は、夜通し、昨日と同じ速さで水を送り続けていたはずだった。
天井の支え木に、ランプを近づけた。木の肌に、細かな水の玉が、びっしりと浮いていた。支え木が、汗をかいていた。
俺は、水の染み出す壁に、耳を当てた。
冷たい岩の向こうから、かすかな音がした。
ごう、とも、さあ、ともつかない、低い音。雪の橋の下を流れる、沢の音に似ていた。目に見えないどこかで、水が走っている。
「ヴュルム」
俺は、壁から耳を離した。
「割れ目の話を、してくれたな」
「ああ」
「昇れる道は、下りることもできる」
ヴュルムの琥珀色の目が、細くなった。俺は、壁の水を指さした。
「熱い水が昇ってきた割れ目を、今は雪解けの水が、上から下りてきてる。山の底から滲む水なら、こんなに冷たくない」
「……鉱脈は、割れ目に沿って走る」
メルカが、自分の野帳の、割れ目の絵の頁を開いていた。
「坑道は、鉱脈を追って掘ります。だから……坑道は、水の通り道に向かって、掘り進んでいる」
「それに、この濁りだ。割れ目に詰まってた粘土が、流されてる。栓が、抜けかけてるんだ」
ヴュルムは、濁った水に目を落としたまま、動かなかった。
それから、坑道を上へ戻っていった。梯子を上る足音が、下りてきた時より速かった。
夕方の桶は、百六十で満ちた。朝より、少ない。
「谷口の水路とは、逆です」
宿へ戻る坂道で、メルカは野帳を見つめたまま言った。
「昼に解けた雪が、割れ目を遠回りして、夜のうちに出てくるんだ。朝の桶は、その名残だ」
「……雪から坑道まで、水は、半日かかります」
野帳の頁の端に、三つの数字が並んでいた。二百四十。百二十五。百六十。
こんな時なのに、俺は少しだけ、うれしかった。俺が空で読んだ半日を、メルカは桶で数えて出した。
◇
その晩、宿の卓に、測量官たちがあの地図を広げた。
「どこだね。その水の通り道とやらは」
年かさのほうが、指で地図を叩いた。いちばん深い坑道の突き当たり。朱の鉱脈が、斜めに山の奥へ続いている。そのまわりには、何も描かれていない。
「この地図には、地下の水脈など一本もない。我々が、この手で測ったのだ」
「いつ、測った」
「この春だ」
「春の、いつだ」
年かさの測量官は、少し黙った。
「……雪解けの前だ。山は、まだ凍っていた。坑道は、乾いていた」
「だろうな」
俺は、地図の、何も描かれていない白いところを見た。
「あんたたちの地図は、間違ってない。測った日の山は、たぶん、この地図のとおりだった。でも、山は季節で変わる。地図は、測った日の山しか描けない」
「測った者が自分の地図を疑えば、地図は誰にも信じてもらえなくなる」
年かさの測量官は、きっぱりと言った。
「一人の案内人の勘と、一人の測量官の、たった二日の数字で、院長の地図を疑うのかね」
「数字は、勘ではありません」
メルカが、言った。
小さな、震えのない声だった。
「二日で、三度、測りました。明日の朝も、測ります」
年かさの測量官は、メルカを見た。それから、何か言いかけて、やめた。
若いほうの指先が、朱の線の脇の白いところを、ためらうように、そっとなぞっていた。
◇
千六百二十三日目の朝、メルカの桶は、七十で満ちた。
水は、もう茶色く濁りきっていた。溜めの水面は、柱の刻みを、また一つ越えていた。
坑口を出た時、脇の岩陰で、灰色のものが動いた。小さな影が、坑道の闇のほうへ、唇で数を刻みながら、一歩ずつ足を運んでいく。瞬きをすると、もう見えなかった。
ナイナだろう。俺は、そのまま坑口の脇の、監督の小屋へ行った。ヴュルムは、卓の上の帳面に、何かを書きつけていた。帳面には、日付と数字が並んでいた。掘り出した鉱石の量だ。
「坑道から、人を上げてくれ」
ヴュルムは、顔を上げなかった。
「水は、三日で三倍を超えた。濁りも、どんどん濃くなってる。割れ目の栓が抜けたら、壁の向こうの水が、一度に来る。せめて、いちばん深いところの者だけでも」
「納期がある」
ヴュルムは、帳面の数字を指で押さえた。
「帝国への鉱石の納めの期日が、早まった」
ヴュルムは、帳面の脇から、折りたたんだ紙を一枚抜いて、卓の上に広げた。
――納めの期日を早める。参謀本部。
短い字の下に、署名があった。字に、見覚えはなかった。名前には、あった。
コスマス。
地理院の廊下で、額の地図の前を通り過ぎていった声が、耳の奥でした。夏には、北で要る。
「秋の初めの約束だった。それが、月の終わりになった。八日後に、帝国の荷車が来る。遅れれば、氏族に下りてくる麦が減らされる。ピエモンテの畑だけじゃ、氏族は食っていけない」
「坑道が沈めば、もっと止まる」
「春の汗だ。毎年のことだ」
「割れ目の話をしてくれたのは、あんただ」
ヴュルムの手が、止まった。
腰の帯に下げた鉄の鍵に、指先が触れた。ほんの一瞬だった。
「山のことは、俺が一番よく知ってる」
ヴュルムは、帳面を閉じた。
「陛下の顧問殿の言葉は、聞いた。だが、坑道は止めない。奴隷を上げたら、誰が掘る」
「俺が掘る」
言葉が、先に出ていた。
「足りない分は、俺とキシェンが掘る。荷車には、陛下の顧問の名前で待ってもらう。書状でも何でも書く。だから――」
ヴュルムの拳が、卓を叩いた。
帳面が跳ねて、床に落ちた。
「顧問殿に、何がわかる!」
小屋の壁が、びりびりと鳴った。リサの雷と、同じ声だった。
「あんたは、陛下の書状を一枚持って、この谷に来た。見て、書いて、帝都へ帰る。それで終わりだ。俺たちは、ここで冬を越す。毎年、毎年だ」
ヴュルムは、床の帳面を拾わなかった。
「素人が一日つるはしを振っても、奴隷一人の半日分にもならん。陛下の書状が谷に届くのは、荷車が来たあとだ。麦の減った冬に、氏族の子供の数を数えるのは、顧問殿じゃない。俺だ」
息が、荒かった。広い肩が、上下していた。
それから、ヴュルムは自分の声の大きさに気づいたみたいに、口を閉じた。帳面を拾って、卓の上に戻した。
「……陛下の顧問殿に、無礼を言った」
声は、もう低かった。引き下がる声では、なかった。
俺は、引き下がれなかった。
「ほかの四つの坑口も、同じ鉱脈を追ってるんだろう。せめて、あっちの監督にも伝えてくれ」
「ほかの坑口は、ほかの監督の持ち場だ」
ヴュルムは、帳面から目を上げずに言った。
「坑道を止めるかどうかは、氏族の年寄りが決める。言いたいなら、年寄りに言え」
小屋の戸口に、リサが立っていた。
いつから聞いていたのかは、わからない。ヴュルムは、そちらを見なかった。最後まで、一度も。




