第28話 『リサさんと、仲がいいですね』
峠を発つ朝、メルカはいつもどおりだった。
いつもどおりすぎた。
「おはようございます、アレクさん。出立は日の出の一時間後です。ピエモンテまで、あと二日です」
宿の食堂で、メルカは一息にそう言って、きっちりと一礼した。それから卓のいちばん端の、俺からいちばん遠い席に座って、粥を食べはじめた。
聞けばいい。でも聞けば、俺も何か答えなきゃならなくなる。
「お前ら、喧嘩でもしたのか」
キシェンが、粥をすすりながら小声で言った。
「してない」
「じゃあ、なんであいつの席だけ、卓の向こうの国にあるんだよ」
答えに詰まっていると、食堂の扉が、蝶番ごと外れそうな勢いで開いた。
「さあ、行くよ、あんたたち! 山が待ってる!」
リサだった。空の麻袋を両腕いっぱいに抱えている。リサはその一枚を、若いほうの測量官の胸にぼすんと押しつけた。
◇
コル峠から、月の山脈の西の麓を、馬で北へ。右手に雪の峰々、左手に乾いた黄色い草の原。谷が一つ口を開けるたびに、その出口にだけ、緑がたまっていた。
「なあ。あの牙、毎日伸びてないか」
二日目の夕方、北東の空の王の牙を指さして、キシェンが言った。
「キシェンさん。山は伸びません」
後ろで、メルカがぽつりと言った。峠を出てから、誰かの軽口にメルカが答えたのは、初めてだった。
その晩、焚き火のそばで、メルカが野帳を開いたまま、俺の隣に立った。座りはしなかった。
「ピエモンテまで、あと一日です」
今度は、俺の顔を見て言った。そう言うと、自分の毛布のほうへ戻っていった。俺は、気づかれないように、そっと息を吐いた。
◇
三日目の昼過ぎ、ひときわ大きな谷の出口から、乳を薄く溶かしたような白い川が流れ出していた。谷の奥に垂れ下がる氷河が削った、小麦粉より細かい岩の粉の色だ。
白い川のまわりに、扇を広げたように、大麦の畑がまぶしい緑で波打っていた。緑の縁は、刃物で切ったように終わる。水が届くところまでが、畑だ。
谷の出口の斜面には、灰色の石の家々が段々に積み重なり、いちばん上の家の向こうに、坑道の黒い口がいくつか開いていた。
メルカが、馬の上で野帳を閉じた。
「……着きました」
「ピエモンテ。古い言葉で、山のふもと、って意味さ」
リサが言った。馬の背で、珍しく静かな声だった。
キシェンが、馬を寄せてきた。
「アレク。目が、もう坑道の中に入ってるぞ」
「入ってない」
「入っています。さっきから、坑口の数を二度、数えていました」
メルカが、前を向いたまま言った。前を向いたまま、俺のほうも数えていたらしい。
……廊下のことは、まだ聞けそうにない。でも、まあ、いいか。
◇
着いた翌日は、氏族の年寄りたちへの挨拶と、陛下の書状の読み上げで潰れた。その次の日、千六百二十日目。谷の口の広場の市で、リサが干した苔の束を突きつけて、大声を上げていた。
「こんな色の寝ぼけた苔が、峠の値だって? 去年の苔だろ、これ!」
◇
「陛下の、地理顧問殿か」
低い声に振り返ると、ドワーフの青年が一人、立っていた。
背は俺の肩くらいで、横幅は俺の倍はありそうだった。赤銅色の髪を短く刈り込み、同じ色の顎髭を、短く一本に編んでいた。腰には、鉄の色をした幅広の帯。帯の正面に、三角を二つ重ねた山の形が、銅の糸で縫い取られていた。
「監督の、ヴュルムだ。鉱山の案内を、氏族から言いつかった」
目が、琥珀色だった。
陽の光を透かした蜜みたいな、明るい琥珀色。どこかで見た色だ、と一瞬思った。どこで見たのかは、思い出せなかった。
「アレクだ。よろしく頼む」
ヴュルムの目が、俺から、俺の後ろへ動いた。
苔の束を抱えたリサが、ちょうど屋台から戻ってくるところだった。
二人の目が、一瞬だけ合った。
それから、どちらからともなく、そらした。リサは急に、腕の中の苔の束がひどく気になったみたいに、一本ずつ匂いを嗅ぎはじめた。ヴュルムはもう、坑道のある斜面へ顔を向けていた。
「坑道に入る前に、見せておきたいものがある。ついてこい」
◇
ヴュルムが連れていったのは、坑道の入口よりさらに上の、むき出しの崖だった。
灰色の岩の壁を、白い帯が一本、斜めに切り裂いて走っていた。幅は、手のひらほど。白い石の中に、金色や鉛色の粒が、星みたいに散らばっている。帯の両脇の岩には、細い割れ目がまっすぐに続いていた。その割れ目の縁には、灰色のねっとりした粘土が、栓のように詰まっていた。
「鉱脈だ」
ヴュルムが、白い帯に手のひらを当てた。
その手つきは、さっきまでの無口な監督のものじゃなかった。山羊飼いが、いちばんいい雌山羊の首を撫でる時の手つきだった。
「山の底の熱い水が、金や鉄を溶かして、この割れ目を昇ってくる。冷えると、それを壁に置いていく」
キシェンが、横から口を挟んだ。
「熱い蜜に溶かした砂糖が、冷めると鍋の縁につく。あれか」
「……まあ、そうだ。だから鉱脈は、割れ目に沿って走る」
「たとえが、全部、甘いものですね」
メルカが、野帳の割れ目の絵の横に鍋まで描きながら言った。ヴュルムの琥珀色の目が、わずかにゆるんだ気がした。
コル峠の稜線で、山が揺れた日のことを思い出した。
「山が揺れるのは」
「割れ目は、山の古傷だ。古傷が疼くと、山は揺れる」
俺は、空と、地面の皮の上を読んできた。この男は、皮のずっと下を読んでいる。
◇
その晩、氏族の集会所で、俺たちのための宴が開かれた。
始まる前に、年かさの測量官が、長い卓の上に革の筒を置いた。筒の口は、黒い蝋で封じてあった。紋章のない、平たい黒い蝋だ。
測量官が蝋を割り、中の地図を、卓いっぱいに広げた。
「この春、我々が測った。ピエモンテ鉱山の、坑道と鉱脈の図だ」
見事な地図だった。黒い細い線の坑道が何層にも重なって山の奥へ下り、朱の鉱脈が、それに寄り添って斜めに走る。分かれ目ごとに、深さの数字が書き込まれていた。
「クリスタ院長も、自らご覧になって、お認めになった」
若いほうが、胸を張った。
地理院の地図と、お前の目と、どちらが正しいか、見てこい。
皇帝の声が、耳の奥で鳴った。
水の印は、一つもなかった。
文書庫の余白の一行が、頭の隅にあった。
「水は、出ないのか」
「出ない。測った時、坑道は乾いていた」
年かさのほうが、即座に答えた。
そうか、とだけ答えた。あの一行も、春のことだった。明日、坑道の壁を、自分の手で触って確かめる。
集会所の扉が開いて、湯気と煙と匂いが、どっとなだれ込んできた。燻製の山羊の塊。黒い大麦のパンの山。チーズの車輪。大麦の酒の、大きな壺。
キシェンはリサに酒の勝負を挑み、峠で毎度そうなるように、先に卓に突っ伏した。リサは笑って、その頭をぺしりと叩いた。
メルカが、自分の前の杯を、じっと見ていた。
「メルカ、それは」
止める前に、メルカはひと口、こくりと飲んだ。
三つ数えるあいだに、首から上が、真っ赤になった。眼鏡の奥の目が、とろんとゆるむ。
「……アレクさんは」
メルカは、杯を両手で持ったまま、ゆっくりと俺を見た。
「リサさんと、仲がいいですね」
「峠の、昔なじみだからな」
「……そうですか」
メルカは、赤い顔で黒いパンを小さくちぎりはじめた。ちぎったパンは食べずに、皿の上に並べていった。一列に。等間隔に。
何か、間違った答えをした気がした。どこが間違いなのかは、わからなかった。
ふと見ると、ヴュルムが席を立つところだった。杯は、最初の一杯から減っていなかった。
「夜の見回りがある。坑道は、夜も止まらん」
そう言って、ヴュルムは集会所を出ていった。
リサが、その背中を、杯越しに見ていた。キシェンの頭を叩いた時の笑顔のまま、目だけが笑っていなかった。扉が閉まると、リサは何杯目かの杯を、一息に飲み干した。
宴のあと、外に出た。
月が、東の山の肩から昇っていた。町のどこにいても、水の音がした。氷河の水は昼に解けて、遅れて谷を下りてくる。昼過ぎに太っていた水路は、夜になって、少し細くなっていた。
水の音を聞きながら、さっきの卓のことを考えていた。
リサさんと、仲がいいですね。
間違った答えをした気は、まだしていた。わからないのは、そのあとだ。あの一言を思い出すたびに、胸のどこかが、勝手にゆるむ。間違えたのに、ゆるむ。どこにも筋が通っていない。
焚き火のそばで、あと一日です、と言われるまでの間が、自分で数えていたよりずっと長かった。あの晩に吐いた息が何の息だったのか、今ごろになって、わからなくなった。
考えかけて、やめた。水の音のほうへ、耳を戻した。
日誌を開いた。
――千六百二十日目。北の風、冷たし。谷口の町、水の音、絶えず。王の牙、拳一つに余る。
書き終えて、見上げた。坑道の黒い口の上の斜面に、白い雪が、月明かりに薄く浮かんでいた。ここへ着いた日より、その白い縁が少し上がっている気がした。




