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山猿と笑われた天気読み、皇帝の地理顧問になる 〜記録魔の少女測量官と、地図一枚で戦争を止めるまで〜  作者: 朝霧ナギ


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第27話 王国に伝えるのは、『来る』の一言だけ

 夕方、短い雨が通り過ぎたあとに、メルカが訪ねてきた。目の下の隈が、文書庫の薄暗がりで見たときより、濃く見えた。


「院長から、ご伝言を」


 メルカは、折りたたんだ紙を一枚差し出した。折り目の上に、黒い蝋が平たく垂らしてあった。紋章のない、地理院の封だ。


「三日後の朝、地理院へお越しください。顧問殿に、お知らせしておくことがある、と」

「なんの話だ」

「……私も、聞かされていません」


 メルカは目を伏せ、何か言いかけて、かわりに野帳を開いた。


「馬は、明日そろいます。ピエモンテまで、あと三十三日です」



   ◇



 その夜、屋根に上がると、帝都の灯りが、同心円になって広がっていた。真ん中の皇宮がいちばん明るく、いちばん外の輪は、ほとんど闇だった。


 千五百八十五日目。


 ――南東の風、弱し。夕方に短い雨。文書庫にて、薄い茶。


 書いてから、少し考えて、一行足した。


 ――母さんは、よだれで、地図に湖を一つ増やしたことがある。


 帝都の空は、まだ読めない。


 でも、この街の水の高さは、読めた。この街の誰が、先に沈むのかも。



   ◇



 三日後の朝、メルカは約束どおり、門の前に立っていた。地理院へ向かうあいだ、一度も口を開かなかった。子午線の広場の真鍮の帯を、ふだんはきちんと跨ぐ人が、その朝は踏んで渡った。


 クリスタは、大地図の間の奥の卓で、一人で待っていた。


「顧問殿に、お知らせしておくことがあります。陛下のご命令ですので。この夏、北の隘路(あいろ)を測量します。クラトン王国との国境の、王の牙の麓へ抜ける谷です。測量局から測量官を一隊出します。護衛に、兵がつきます」


 壁の地図の北の端、王の牙へ抜ける谷は、細い二本の線のあいだが、白く空いているだけだった。誰も測ったことのない、白い谷。


「なんのために」

「地図に正確な道がなければ、軍は動かせません」


 これは、戦の下準備だ。


 クリスタが卓に置いた紙には、隊の道筋と日取りが書き込まれ、その下に、測量官の名前が並んでいた。メルカの目が、その名前の列の上で、止まった。


「院長。隊の顔ぶれは――」

「あなたは入りません。あなたは、地理顧問の補佐です。補佐の務めを果たしなさい」


 クリスタは、メルカのほうを見ずに言った。メルカは、何か言いかけて、口を閉じた。



   ◇



 地理院を出ると、メルカが前を向いたまま、ぽつりと言った。


「……隊の名簿に、知っている名前がありました。見習いのころ、同じ机でした。給金の日には、大橋の揚げ菓子を、一本ずつ半分に分けて。……几帳面な人です。私より、ずっと」



   ◇



 その夜も、屋根に上がった。


 王国に伝えるか。伝えるなら、何を。


 全部伝えれば、王国は谷の上で待つ。それは、ワジと同じだ。谷の底で、給金の日に揚げ菓子を半分に分けた誰かが死に、帝国は、軍を動かす理由まで手に入れる。


 来ると知れば、王国は谷を固めることも、道を隠すこともできる。待ち伏せだけは、できない。道筋と日取りは、俺の頭の中だけにしまっておく。


 来る、とだけ伝える。それが、俺の最初の報せになる。リサには、峠で、自分の口で言えばいい。



   ◇



 翌朝、千五百八十九日目に、俺たちは帝都を発った。俺と、メルカと、キシェン。地理院の測量官が二人。それから、数えていない誰か一人。


 大橋のたもとで、メルカが野帳を開いた。


「ピエモンテまで、あと二十九日です」


 上りの舟は、海からの風を帆に受けて速かった。十六日目に軍馬に乗り換えて登るにつれ、沢という沢が、雪解けの濁った水を吐きはじめた。峰の白は、まだ厚かった。


 帝都を発って二十六日目の夕方、日誌の数えで千六百十五日目に、峠の宿場町の灯りが見えた。


「あと、三日です」


 メルカが、灯りを見下ろしたまま言った。


 ギルドの扉が開いて、赤銅色の三つ編みが坂を駆け下りてきた。


「リサ。話がある」


 俺の背中めがけて振り上げられた手が、宙で止まった。リサは、俺の後ろの紺の二人を、じろりと眺めた。


「……紺が増えたね。晩飯のあとで、裏においで」



   ◇



 酒場の裏の路地。空の酒樽の上で、リサは足をぶらぶらさせていた。


「この夏、帝国が、北の隘路を測りに来る。王の牙の麓へ抜ける谷だ。測量官の一隊に、護衛の兵がつく」


 リサの足が、止まった。


「いつ。どの谷から。何人だい」

「言わない」

「……知らないんじゃなくて、言わないんだね。なんでだい」

「隊の測量官は、メルカの同僚だ。谷の上で、待たれたら困る」


 リサは、低く、喉の奥で笑った。


「……ほんとに、母親似だよ。ストラも、いつだって、全部は寄こさなかった」


 リサは、樽の上の陶の杯に、酒を注ぎはじめた。


「いいさ。来るってわかってるだけでも、王国には十分な報せだ。……で、あんたは、なんで峠に戻ってきたんだい」

「陛下の命令だ。ピエモンテ氏族の鉱山を見に行く」


 リサの手が、止まった。


 杯から、酒があふれた。樽の板の上を、細い筋になって流れ落ちていく。染料の染みた指先が、酒壺を傾けたまま、動かなかった。


「……リサ。こぼれてる」


 リサは、はっとして壺を起こし、濡れた樽の板を、袖でごしごしと拭いた。顔を上げたときには、いつものリサだった。


「ちょうどいいや。あたしも、ピエモンテに銅の山の緑青(ろくしょう)を買い付けに行こうと思ってたところさ。あんたたちだけじゃ、ドワーフの山で迷子になるのが落ちだからね」


 リサは、樽からひょいと飛び降りて、路地を出ていった。樽の上には、あふれさせた杯が、口もつけられずに残っていた。


 あいつらは、伏流とは関係ない。


 前にこの路地でピエモンテの名を出したとき、リサはそう言った。樽の縁を、強く握って。



   ◇



 夜更け、母さんの墓からの帰り道、ギルドの裏手の暗がりで、足が止まった。


 リサと、フードを目深にかぶった背の高い人影だった。前に見たのと、同じ旅装束。人影は細く巻いた手紙をリサに手渡すと、山脈の西の麓へ続く、峠の西の坂を下りていった。


 リサは、手紙を手にしたまま、うつむいていた。王国からの手紙を受け取るのは、目の仕事だ。それなら、なぜ、あんな顔をする。


 十八年見てきたリサの、俺の知らない顔だった。



   ◇



 宿に戻ると、二階の廊下に、明かりが一つだけともっていた。


 廊下の突き当たりの窓の前に、メルカが立っていた。


 寝間着の上に、制服の上着を羽織っている。目が、まっすぐ俺に向いていた。


 窓の下は、酒場の裏の路地だった。さっきまで俺とリサが、樽に並んで額を寄せていた路地だ。


「……メルカ」


 メルカは、俺の顔を、しばらく見ていた。何かを測るような目でも、何かを問いただすような目でもなかった。ただ、見ていた。


 それから、小さく頭を下げて、自分の部屋へ戻っていった。


 扉が、静かに閉まった。


 峠の風が、窓の外で鳴っていた。その音のほうが、ずっと大きかった。

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