第26話 文書庫の余白に、四十年前の一行
広場の真ん中の丸い石は、膝ほどの高さしかない。
まわりの小石の山はもう水の下で、石の頭だけが、島みたいにのぞいていた。
水を蹴って、年寄りの上着の背をつかみ、引き起こした。軽かった。乾いた鱗が、手のひらにざらりとこすれた。
年寄りの両腕を、丸い石の頭に回させた。石にしがみついていれば、溝の口へは引かれない。列の、二十何番目の場所だった。前の者の背中が、そこにあった。
向かいの軒の下で、あの娘が、高床へ上がる梯子にしがみついていた。壺は、胸に抱えたままだった。
雨は、来た時と同じくらい急に、通り過ぎた。
家々の壁の、腰の高さの去年の線のずっと下に、膝の高さの泥の線が、一本、新しく引かれていた。
折り返された列を、窓口の台の上から尾の先まで数えた。欠けた者は、いなかった。
窓口の木の戸が、がたりと開いた。顔を出した役人は、広場の縁をぐるりと回って続く列を見て、何か言いかけ、口を閉じた。順番は、一つも崩れていなかった。
梯子の上で、娘が、袖をまくって見せた。渦巻きも、線も、流れていなかった。娘は何も言わずに、浅く頭を下げた。
「お前、峠でもああやって、空をただで配ってたのか」
キシェンが、濡れた前髪をかき上げた。
「空は、誰のものでもないだろ」
帰りぎわ、水の引いた丸い石の前で、足もとの小石を一つ拾って、山のてっぺんに載せた。峠の、母さんの墓のそばの石と、同じ形だった。
「境の神の石か。帝都にもあるんだな。こんな、いちばん外っ側に」
キシェンが、意外そうに言った。
誰も見ていないのを確かめて、石の裏側をのぞき込んだ。苔むした石の肌が、湿って光っているだけだった。
明日も、来よう、と思った。毎朝、小石を一つ。
◇
外縁の石に小石を積むのが三度目になった朝、石の裏に何もないのを確かめてから、俺は文書庫へ向かった。陛下の言った、四十年前の余白の一行を探すためだった。峠を発つ前の晩、リサが母さんの仲間として名を挙げた、色眼鏡の爺さんもいる。
中は薄暗く、天井に届く棚が、森の木みたいに並んでいた。いちばん奥の窓の下の机に、痩せた、ひどい猫背の老人がいた。真っ白な髪をうなじで束ね、色の濃い眼鏡をかけている。
「峠の足音だね」
老人は、筆を止めずに言った。
「石畳を歩き慣れていない。でも、坂を歩き慣れている。……ストラの息子だね。リサから、そろそろ顔を出すころだと聞いていた。座りなさい」
老人は、エラトと名乗った。この文書庫で、もう五十年、紙の番をしているのだという。
◇
「ストラは、この机に座っていたよ」
欠けた茶碗に驚くほど薄い茶を注ぎながら、エラトは言った。
「峠から出てきて、古い山の地図を写させてくれと言ってね。ある日の夕方、写しかけの地図の上で、ぐっすり眠っていた。目を覚ましたら、頬の下に、地図にない湖が一つできていた」
「……湖」
「よだれのね。あの子は真っ赤な顔をして、その染みの縁を物差しで測りはじめた。どうせ描いてしまったなら、正確に描くと言ってね」
俺は、吹き出した。母さんらしい。懐から観察帳を出して、机に置いた。
エラトは入口のほうへちらりと顔を向けて、声を落とした。
「ストラは、帝都の口が要ると言った。宮廷の奥で何が決まって、何が動いているのか。それを外へ知らせる口がね。……私は、その口だった。今も、そうだ」
エラトは、まっすぐ俺のほうを向いた。
「ストラの息子が帝都に来た。それなら、私は君の手伝いをする。石の裏に印を見つけたら、ここへ来なさい。古い地図を見に来た、と言えばいい。君なら、本当のことだ」
それから、机の上の観察帳に目を落とした。開きはしなかった。インクで黒ずんだ指先で、擦り切れた革の表紙を、そっと撫でた。古い友人の肩に、手を置くみたいに。
「大事にしなさい」
入口の扉が、きしんだ。
「今度は、几帳面な足音だ。歩幅が、一歩ずつ同じだ。地理院の靴だね」
棚のあいだから現れたのは、紺の制服のメルカだった。支度の合間に、抜けてきたのだという。ピエモンテの鉱山の、古い控えを見たいと言うと、エラトは筆を置いて立ち上がった。
エラトについていくと、棚と棚のあいだの突き当たりで、棚が一つ、まるごと黒い鉄の格子で閉じられていた。拳ほどもある錠前が下がっている。
「皇族の系図だよ。誰が誰の子で、誰が誰を娶ったか。閲覧は、禁じられている」
エラトがその奥の棚から下ろしてきたのは、四十年前に地理院が鉱山を測ったときの、黄ばんだ控えの束だった。坑道の深さ。鉱脈の向き。数字ばかりの頁が続いていた。
頁をめくっていたエラトの指が、一枚の余白で止まった。細い字で、一行だけ書き込みがあった。
――春。峰の雪の上に、雨。翌朝、深い坑道に出水。死者、多数。
俺は、その一行を、二度読んだ。
雪の上に、雨。峠でも、春にいちばん嫌われる空だ。
「……『翌朝』」
メルカが、小さく繰り返した。
「雨が降りだしたのが何時で、水が出たのが何時なのか。時刻が、書いてありません。死者の数も」
「余白に書く者は、数より先に、忘れたくないものを書くんだよ」
エラトは、帳面の角をそろえながら言った。
「数は、あなたがたの仕事だろう。測量官さん」
メルカは、はい、と小さく言った。
「写していいか」
「どうぞ。写すのは、ただだ」
母さんの観察帳の、後ろの白い頁に、一字ずつ写した。隣で、メルカも野帳に同じ一行を写していた。『翌朝』の二文字の下に、細い線を一本引いて。日付も、書いた者の名も、どこにもなかった。
写し終えた一行の『峰の雪』のところへ、俺の鉛筆の先が戻って、止まった。
この冬の峰の雪がどれほどかは、峠で見てきた。一行の前の半分は、もう揃っている。
「……今年の峰は、雪が多い」
隣で、メルカの鉛筆も止まっていた。『翌朝』の下に引いた線の、端で。
その上に、もし、雨が来たら。
四十年前の誰かは、その翌朝のことを、もう書いていた。




