第25話 同心円の街
「帝都はな、玉ねぎだ」
朝飯の皿を片づけながら、キシェンが言った。
「今日は、いちばん外の皮まで行く。襟巻き、忘れんなよ」
メルカは鉱山行きの支度で、朝から地理院に呼ばれていた。
◇
皇宮のまわりの静かな通りから、緩い坂を下ると、人間の職人と商人の街だった。帝都は平らに見える。でも足の裏は、正直だ。外へ歩くほど、地面は少しずつ低く、湿っていく。
目の前の家の壁に、腰くらいの高さで、横に一本、くっきりと線が走っていた。隣の家にも、通りの先まで、同じ高さに同じ線。
「水の跡だ。去年の雨季に、ここまで水が来た」
あの土手は、川が自分で盛ったんです。舟の上で、メルカはそう言って、名前も教えてくれた。岸に沿った高みが、自然堤防。裏の低い土地が、後背湿地。皇宮は、その高みのいちばん上にある。少し低い土地に、人間の商人と職人。もっと低い土地に――
「……水をかぶる順番に、住む人間が並んでる」
帝都の同心円は、地図の上に引いた丸じゃない。高さの順番だ。
◇
三枚目の皮は、湿った土と、煮炊きの煙のにおいがした。
右手に、エルフの高床の家。芋を揚げている婆さんの手首に、黒い小さな輪を三つ重ねた文様が彫り込まれていた。持ち主の家の紋章だ、とキシェンが小声で言った。
左手には、地面を腰の深さまで掘り下げて、平たい屋根をかぶせたリザードマンの砂漠の家。さっきの水の跡と、同じ深さだった。
「……雨季には、どうなる」
「毎年、水が入る。毎年、かき出す。『種族ごとに、ふさわしい家を』ってのが、帝国の決まりだそうだ」
きれいな決まりだ、と思った。地図の上でなら。
◇
キシェンが俺を連れていきたかったのは、その先の、皿の底みたいに一段低い広場だった。膝ほどの高さの石の台の上に、窓口のついた低い石の建物があって、その前から、角を曲がって通りの先まで、長い列ができていた。ほとんどがリザードマンで、ところどころに、肩幅の広いドワーフが混じっている。
誰も、しゃべっていなかった。みんな袖をまくって、腕を出していた。その腕に、藍で、同じ形が描いてある。手首に渦巻きが一つ、そこから肘へ、まっすぐな線が三本。
どの文様も、薄かった。
「染料の配給所だ」
キシェンが、言った。いつもの軽い声じゃなかった。
「帝都じゃ、家内奴隷は、染料を買うこともできない。主人が出した札と引き換えに、ここで一回分。一回で、十日かそこら、もつ」
「札がなかったら」
「もらえない」
キシェンは、列の真ん中あたりの、年老いたリザードマンを見た。腕の藍は、ほとんど消えかけていた。目のまわりの鱗が、乾いて白く粉を吹いていた。
「ああなる。逃げたら、十日で倒れる。染料一壺で、人は、どこにも行けなくなる」
窓口の中から、木の板を叩く音がした。
「朝の分は、ここまで! 次は、昼の鐘のあとだ。列を崩した者の札は、今日は受けん!」
列が、止まった。誰も、文句を言わず、列を離れなかった。前の者から順に、その場にしゃがみ込んだ。
列のいちばん後ろに、若いリザードマンの娘がいた。手に、札を握っていた。腕の藍は、肘の内側に、細い線が一本残っているだけだった。娘は、閉じた窓口を見つめたまま、ゆらりと揺れた。
俺は、懐に手を入れていた。リサの包み。藍の壺。
手首を、つかまれた。
「やめとけ」
「あの子は、札を持ってる」
「お前の藍には、札がない。配給所の藍じゃない色を腕につけてる奴は、それだけで、逃げる支度をしてると疑われる。あの子が、鞭を食らう」
俺は、懐の中で壺を握りしめたまま、動けなかった。
配給所の脇の小さな扉から、灰色の上着の中年の男が出てきた。見た目は、人間だった。ただ、右手の中指に、数字を刻んだ銅の指輪をはめていた。
「混血の役人だ。登録された混血は、ああいう指輪をはめさせられる。二つの土地の体を持ってるから、気候の境目の仕事に使われるんだ」
キシェンが、低く言った。
男は、まっすぐ娘のところへ歩いていって、手から札を取り、小さな壺を一つ、代わりに握らせた。それから帳簿を開いて、何かを書き込んだ。
「書き損じだ。朝の分の数を、一つ、数え間違えた。記録の間違いは、よくあることだ」
扉の中に戻り際に、男は、俺の首の襟巻きを、ちらりと見たような気がした。俺が小さく頭を下げると、男は何も返さずに、扉の向こうへ消えた。
娘は、壺を胸に抱えて、ゆっくりと歩いていった。
キシェンが、俺の手首を離した。
「……見せたかったのは、これだ。峠からじゃ、見えないだろ。帝国の鎖は、鉄じゃないんだよ」
しゃがみ込んだ列の上で、昼前から湧いていた雲が、背を伸ばしきって、てっぺんを平たく広げはじめていた。風が、ふっと止んだ。この形になったら、雨までは長くない。
広場の隅の日なたで、さっきの娘が壺の蓋を開けて、指先で腕に藍を引いていた。手首に渦巻き。肘へ、まっすぐな線を一本。描いたばかりの藍は、乾くまでが弱い。
「じきに、降るぞ。描くなら、軒の下で描け」
娘はびくりと顔を上げ、俺を見て、それから、まだ明るい空を見た。壺を胸に抱えて、向かいのエルフの高床の家の、深い軒の下へ移った。
「雨が来る。ここは水が溜まる。上の通りまで上がれ」
列の誰も、立たなかった。みんな、閉じた窓口のほうを向いたままだった。
「無駄だ。濡れるより、藍がもらえないほうが怖いんだ」
キシェンが言い終わる前に、空の底が抜けた。
大粒の雨が敷石を叩いた。坂という坂を下ってきた雨水が、溝からあふれて、広場へなだれ込んでくる。ここは、土手の裏の、皿の底だった。一つきりの溝の口が、ごぼりと鳴って、水を吐き返した。
十数えるあいだに、足首が沈んだ。もう十で、すねまで来た。しゃがんでいた列は立ち上がり、そのまま、動かなかった。窓口の石の台の上だけが、まだ水の上に出ていた。
雨の幕の向こうの、広場の縁を見た。窓口の台。エルフの家々の石の踏み段。真ん中の、小石の積もった丸い石。高いところが、切れ切れに、輪になって残っている。
「キシェン。列は、崩さなくていい。曲げるんだ。高いところをつないで、順番どおりに折り返す」
「……地図屋みたいなこと言いやがって」
列の先頭のドワーフの肩を叩いて、窓口の台を指さした。
「上がれ。窓口の真ん前だ。誰も、あんたの番を取らない」
二番目を、その後ろに。三番目を台の端に。あふれた四番目を、エルフの家の踏み段へ。一人ずつ肩を叩いて、前の者の背中を指さした。この背中から、目を離すな。列は、広場の縁を伝って、ゆっくりと水の上へ折り返されていった。尾のほうは、キシェンが受け持った。
その時、水の中で、誰かが倒れた。
腕の藍がほとんど消えていた、あの年寄りのリザードマンだった。流れに足を取られて膝をつき、そのまま、溝の口のほうへ、ずるずると引かれていく。
手は、札を握ったまま、放さなかった。




