第24話 『正しいことしか、言わない方なんです』
「その網の目の上で」
俺は、壁の地図の西の端を指さした。
「峠の西の道が、谷の北側に描いてある。本当は、南側だ。あの地図を信じて北側を下りたら、崖の上で立ち往生する。実際に、した。この冬の終わりに、帝国の工兵が百人、その道を探して、雪の庇の上で夜を明かした」
学者たちが、ざわめいた。俺は、ワジの南の、尾根の線を指さした。
「この尾根は、ここで切れてる。あんたの地図では、ずっと続いてる。二千六百人が死んだのは、この一本の線のせいだ」
コスマスの顔から、色が引いた。
その目が、壁の地図から、地図を指さした俺の腕へ下りてきた。手首のボタンまで留めた袖の上で、止まった。
「顧問殿は、帝都でも、腕を見せないのですね」
静かな声だった。学者たちの何人かが、つられて俺の袖を見た。
「参謀長」
クリスタが、壁の地図から目を離さずに言った。
「四位の者の腕を検めるのは、大橋の門の兵の役目です。ここは、地図の間です」
コスマスは、口を閉じた。目だけが、少し遅れて、俺の袖から離れた。
俺は、指さしていた腕を下ろした。クリスタの目は、俺が指さした場所から、しばらく動かなかった。
「工兵隊長の報告は、読みました。測量官メルカの、峠の写しも。峠の西の部分は、四十年前の測量です。誤りがあるなら、正します。ただし、検証が済んでから。一人の案内人の言葉や、一人の測量官の一度の測量で、地図を書き換えることはしません。それをすれば、地図は、声の大きい者の言いなりになる」
「検証してるあいだに、人が死ぬ」
「死にました」
クリスタは、まっすぐに俺を見た。
「二千六百二十四名。メルカの報告書で、読みました」
数字を、一つも間違えなかった。
「コスマスは、私が最初に弟子と認めた男です。彼は、地理院の地図を信じた。それは、地理院の者として、正しい態度です。もし、地図が間違っていたのなら、その誤りは、地図を描かせた者の誤りです。弟子のものではありません」
コスマスが、何か言いかけた。クリスタは、片手を軽く上げて、それを止めた。
「涸れ川の尾根の数字は、再測量に回します」
◇
クリスタは、奥の卓に広げてあった地図の一枚を、俺のほうへ向けた。
三角州の平野に、町が、蜂の巣みたいに六角形に並んでいた。同じ形、同じ間隔。道は、すべてまっすぐだった。
「帝国の町と道を、こう並べ直します。どの村からも、歩いて半日で、医者に手が届くように」
言っていることは、たぶん正しかった。熱を出した子供を背負って、峠から麓の医者まで夜通し歩いた親を、俺は何人も知っている。
でも、六角形の頂点の一つは、土手の裏の沼のど真ん中にあった。
「ここには、町は建たない。雨季が来たら、腰まで水に浸かる」
「水は、引けばよい。土地は、均せばよい。沼を埋め、丘を削る。人の暮らしは、土地に合わせるのではなく、正しい形に、土地を合わせるのです」
背中が、すっと冷たくなった。
クリスタが地図の束を引き寄せたとき、いちばん下から、細長い紙の端が一枚、のぞいた。
月の山脈を、横から切った図だった。鋸の歯みたいな峰と鞍部に、標高と気温の数字。メルカの、小さな字だった。
その峰々の上に、定規で、横に一本、まっすぐな線が引かれていた。峰の頭を、すべて同じ高さで切り落とすような線が。
クリスタは、その紙を、何事もなかったように束の中に押し戻した。
「陛下の、もう一つのご計画のための資料です。顧問殿のお務めは、鉱山でしょう」
月の山脈を削れば、砂漠に雨が降るか。ワジの天幕で聞いた皇帝の問いが、耳の奥で鳴った。
◇
「メルカ」
クリスタが、振り返らずに呼んだ。メルカの肩が、小さく跳ねた。
「あなたの報告書は、読みました。数字は、よく測れています。尾根の数字も、雨量の見積もりも。……一つだけ、聞きます」
クリスタは、ようやくメルカのほうを向いた。
「報告書の中に、何度も、案内人の『読み』という言葉が出てきました。あなたは、測量官として、この男の『読み』を、信じるのですか」
メルカは、野帳を胸に抱いていた。指が、白くなるほど強く。長い間が、あった。
「……峠で、初めてお会いした日」
小さな声だったが、震えてはいなかった。
「案内人の予報は、私の気圧計よりも、四時間、早かったです」
それだけだった。信じるとも、信じないとも、言わなかった。
クリスタは、黙ってメルカを見ていた。
「記録は、正確に」
「……はい」
「それが、測量官の務めです。……それなら、いいでしょう」
記録は、正確でなければ意味がありません。峠の宿で聞いた、メルカの口癖だった。誰に教わった言葉なのか、俺は、そのとき初めて知った。
クリスタは、涸れ川の尾根の再測量の命令書に署名をして折りたたむと、卓の隅の小さな燭台で棒状の蝋を溶かして、折り目の上に垂らした。
黒い蝋だった。紋章も、印も、押さなかった。
「地理院の封です。地理院の文書に、誰か一人の紋章は、要りません。地図は、誰のものでもないのですから」
隣で、メルカが息を止めた。黒い蝋の封を見つめる顔から、血の気が引いていた。
院長の前で、よほど気を張っていたのだろう。俺は、そう思った。
◇
長い廊下の壁には、古い地図が、額に入れてずらりと掛けてあった。その一枚の前で、俺は足を止めた。
山の地図だった。斜面の急なところは太く密な線で、ゆるいところは細くまばらな線で描かれている。母さんの観察帳と、同じ描き方だった。祖父さんが、峠の家の土間で、木の枝で描いてみせた、あの線と。
「誰が描いたんだ」
額の下の縁に、小さな真鍮の名札が打ちつけてあった。
名札の文字は、削り取られていた。たがねか何かで、丁寧に、一文字残らず。
「……わかりません。地理院には、時々、こういう名札があるんです。誰も、理由を教えてくれません」
廊下の向こうから、コスマスが歩いてきた。俺たちの前で足を止めたが、俺の顔は、見なかった。
「鉱山の納めは、遅らせられん。夏には、北で要る」
それから、額の中の古い地図を、ちらりと見た。
「院長は、正しい。いつもな」
鉱山の話と、同じ声だった。それだけ言って、コスマスは俺の横を通り過ぎていった。
◇
地理院の外に出ると、昼の日差しが子午線の広場の白い敷石に照り返して、目を開けていられないほどだった。
メルカは、広場の真鍮の線の手前で、足を止めた。
「……すみません」
「なんで、お前が謝る」
「院長は、間違ったことは、一つも言っていません。……ただ、院長は、正しいことしか、言わない方なんです」
顔を上げたメルカの目が、眼鏡の奥で、ゆっくりまばたいた。
「……今、アレクさんの目が」
「目?」
「一瞬、金色に、光ったように見えたので」
言ってから、メルカは自分で首を振った。
「日差しのせいだと思います。敷石の照り返しが、強いので」
「暑さで目が回ってるんだろ」
メルカは、それ以上、目のことは言わなかった。
◇
その夜、門を叩く音がした。
メルカだった。胸に抱えた平たい木の箱の中に、細い筆が数本と、墨と、小さな硯。どれも、角が丸くなるほど使い込まれていた。
「見習いのころの、道具です」
メルカは卓に紙を一枚広げて、筆を俺の右手の側にそろえた。
「峠の西の道は、谷の南側です。私の野帳と、同じなら」
「同じだ」
「それなら、いいです」
メルカは頭を下げ、門の外の暗がりへ戻っていった。
峠を、描いた。
見なくても、描けた。尾根の一本一本、谷の一つ一つ、西の道が谷の南側を下っていく、その曲がり方まで。使い込まれた筆は、木の枝より、ずっとよく言うことを聞いた。
描き終えてから、日誌を開いた。
千五百八十二日目。
――南東の風、弱し。昼前より雲。夕方に短い雨。皇宮にて、鉱山。地理院にて、山猿。
書いてから、陛下の言った一行のことを思った。四十年前の、余白の一行。
いつの間にか、キシェンが後ろからのぞき込んでいた。
「……描けるじゃないか、地図。やっぱり言われたか。山猿」
「知ってたんだろ」
「だから、聞きたいかって聞いたろ」
キシェンは、卓の上の筆に目をやった。
「この筆は、山猿の持ち物じゃないな」
「借り物だ」
「なあ、アレク。明日、外縁を見に行かないか。帝都の、いちばん外側だよ。三日、歩き回って、見つけた」
いつもの、軽い調子だった。目だけは、笑っていなかった。
「お前に、見せときたいものがある」




