第23話 地図も描けない山猿
帝都に着いた夜、屋根に上がった。
土手の裏の暗い沼のほうから、何千という蛙の声が、波のように寄せては返していた。星は、滲んでいた。
千五百七十九日目。帝都メリディア。
――南東の風、弱し。蒸し暑し。星、滲む。釘星、拳ふたつに少し足りず。裏の沼に蛙の声、多数。
峠の空なら、明日の天気を言い当てられる。この空は、まだ何も俺に話しかけてこない。
包みの底に一本だけ残った揚げ菓子を、屋根の縁の、平らな石の上に置いた。
帝都の、神様の分だ。
◇
揚げ菓子は、翌朝、なくなっていた。それから三日、キシェンは毎日どこかへ出かけては、帝都の噂を拾って帰ってきた。
「地理院の連中が、お前のことをなんて呼んでるか、聞きたいか」
「聞きたくない」
「だろうな」
四日目の朝、門の前に、メルカと、あの伝令が並んで立っていた。メルカの目の下に、薄い隈があった。
「地理顧問アレク殿。地理院の前に、皇宮へ。陛下が、お二人をお呼びです」
メルカは俺の首もとに目をやって、襟巻きの端を、一つ折り込み直した。
◇
皇帝の部屋には、飾りがなかった。卓の上にも壁にも、地図ばかりだった。
卓の手前には、紺の制服の測量官が二人、ひざまずいていた。膝の上に革の地図筒を剣みたいに横たえた、背筋のやけにまっすぐな四十がらみの男と、メルカと同じくらいの年の、ひょろりとした若い男。俺とメルカも、隣にひざまずいた。
「アレク。ピエモンテ氏族の鉱山を見てこい。月の山脈の西の麓、帝国の側に住む、ドワーフの氏族だ。帝国の鉄と銅の多くは、あの山から出る」
「地理院は、この春、あの鉱山の坑道と鉱脈の図を作った。この二人が、測った。地理院の地図と、お前の目と、どちらが正しいか、見てこい」
「雪が解けきる前にだ。あの山の坑道は、雪解けの水と相性が悪いと聞く。四十年前にも、あの山で坑道が水に呑まれたと、地理院の古い控えの余白に、一行だけあるそうだ。クリスタは、測り直したから二度とは起きぬと言う。……余は、その一行を、まだ読んでおらん」
「測量局のメルカ。お前も行け」
「……拝命、いたします」
退がりぎわ、白い髭の年寄りの廷臣が、紺の紐で巻いた細い巻物を差し出した。地理顧問に宮廷の四位を授く、という位記だった。母さんの観察帳と一緒に外套の内側にしまうと、懐が重くなった。
◇
皇宮の門を出ると、メルカは門の脇で野帳を開いた。
「ピエモンテまで、あと三十六日です」
峠では、もう、沢という沢が太りはじめているころだ。帝都の空の向こうに、山は見えない。
それでも、この冬の雪なら、この目で見てきた。峠に帰った日、西の鞍部の雪庇は残らず落ちて、下の谷に灰色の扇を広げていた。その扇は、峠で見てきたどの春のものより広かった。
あれだけの雪を、この冬、山は峰に積んだ。ピエモンテは同じ山脈を、峠から北へ三日だ。
峰の雪が解けきるのが先か、俺たちが峰の下に着くのが先か。
◇
帝国地理院は、子午線の広場の西側に建つ、白い石の四角い建物だった。二階の奥の天井の高い部屋を、メルカは大地図の間と呼んだ。
正面の壁、一面が地図だった。大人の背丈の三倍はある。壁に沿って木の足場が組まれ、灰色の長衣の男が二人、細い筆を動かしていた。
帝都から金の線が一本、地図を縦に貫き、経線と緯線が何十本も走っていた。世界が、縦と横の網の目の中に、きっちりと収められていた。
見事だった。悔しいが、見事だった。
帝都から遠くへ行くほど、川はまっすぐになり、山は同じ形の小さな印の行列になっていった。その西の端の、ほんの小さな切れ目に、コル峠。峠から西へ下る道が、谷の北側の斜面を、点線で下っていた。
「……違う。北側は、山羊も通れない崖だ」
◇
扉が開いて、背の高い、痩せた女が入ってきた。
五十をいくつか過ぎたくらいだろうか。白いものの混じった黒髪を、うなじの上で固く結い上げている。飾りのない、灰色の長衣。右手の中指の腹が、インクでうっすらと青く染まっていた。
後ろに、灰色の長衣の学者たちが、五、六人。その最後に、紺の軍服の胸に地理院の銀の徽章を光らせた、痩せた男がいた。
コスマスだった。俺を見て、すぐ目を地図に移した。
「帝国地理院の院長、クリスタです」
女は、俺の前で足を止めた。声は、低くて、乾いていた。
「陛下の地理顧問殿。お目にかかれて、光栄です。私どもの鉱山の図を、検めにいらっしゃるそうですね」
光栄そうな顔では、なかった。気圧計の針を読む時のメルカと、よく似た顔だった。
「顧問殿に、一つ、うかがいたいことがあります」
クリスタは、壁の地図の西の端を指さした。
「コル峠の、緯度と経度は」
学者たちが、静かになった。
「緯度は、釘星が、拳ふたつと、少し。二十度を、少し越えたあたりだ」
「二十一度三十二分」
クリスタは、間を置かずに言った。
「拳で、ですか。……悪くはない。では、経度は」
「知らない」
後ろの学者たちの何人かが、鼻で笑った。クリスタが後ろを見ると、笑い声は、ぴたりと止んだ。
「知らない、と」
「測ったことがない。月食の晩でなきゃ測れないと、舟の上で聞いた」
隣で、メルカの肩が小さく跳ねた。クリスタの目が、メルカに動いた。
経度の話は、院長の前ではするな。メルカがそう言ったわけが、やっとわかった。めったに測れないものを、壁の地図は、緯度と同じ顔をして並べているのだ。
「地図とは、世界を、経度と緯度の網の目の上に置くことです。網の目のどこにあるのかわからないものを描いても、それは地図ではありません。絵です」
クリスタの目が、俺に戻った。
「自分の立っている場所の経度も言えない者が、陛下の地理顧問を務める。地図も描けない山猿に、それが務まると、陛下はお考えのようです」
大地図の間が、しんとした。
怒ってはいなかった。クリスタは、天気を告げるみたいに、ただ、自分が正しいと思うことを言っただけだった。
だから、余計に腹が立った。
山猿で結構だ。山猿は、山のことなら知っている。




