第22話 帝都メリディア
川は、海に近づくほど急がなくなる。
森の縁の川港で軍馬を預けて舟に乗ってから、十九日目の朝だった。
蒸し暑さに負けて、俺は袖を肘までまくっていた。その袖の上に、薄い麻の襟巻きが飛んできた。
「都が見えたら、袖、下ろしとけ。それも巻いとけ」
キシェンだった。荷物にもたれたまま、こっちを見てもいなかった。
「この暑さでか」
「この暑さだから、だよ。大橋の門じゃ、腕を見せるんだ」
俺の肌には、草描きが乗らない。子供のころ、母さんの壺に指を突っ込んで腕に線を引こうとしたら、藍は玉になって転がり落ちた。人前で、腕を出しっぱなしにするんじゃないよ。母さんの口癖だった。
峠では、寒いからと言えば済んだ。この都では、たぶん、済まない。
◇
昼前に、川がほどけはじめた。その付け根に、白い壁と赤茶けた瓦屋根の都があった。いちばん奥に、丸い屋根をいただいた白い塔。両岸を、石の橋がつないでいた。
「帝都メリディアです。あれが大橋。帝国じゅうの道が、最後はこの橋に集まってきます」
メルカは、岸の家々が並ぶ細長い土手を指さした。
「あの土手は、川が自分で盛ったんです。古い町は、みんなあの上にあります」
舟が岸に寄せはじめた時、袖を下ろして、手首のボタンを留めた。襟巻きは、汗ばんだ手のひらでは、うまくまとまらない。
「……巻き方が、違います」
布の端を、横から取られた。メルカは首の後ろを覆って、喉もとで一度ゆるく交差させ、端を、襟の内側に折り込んだ。
「帝都の襟巻きは、日よけではありません。汗よけです」
なぜ俺一人が首まで布で覆うのか。聞いてもおかしくないことを、メルカは何も聞かなかった。
◇
橋の入口の門で、兵が、渡ろうとする者を一人ずつ止めていた。リザードマンの隊商の男が、袖をまくって腕の藍の文様を見せ、通された。
「この都で、余所者の腕は、通行証なんだよ」
キシェンが、小声で言った。
俺たちの番が来た。兵の目が、俺の長い袖の上で止まった。
「そっちの男。袖を――」
言い終わる前に、兵の指が、俺の袖口をつまんで引いた。手首のボタンが、ぷつりと一つ外れた。
その指と袖のあいだに、紙が差し込まれた。
メルカだった。測量局の通行証と、皇帝の印のある書状。兵は皇帝の印を見るなり背筋を伸ばし、ほとんど何も見ずに俺たちを通した。袖口からのぞきかけた素肌も、たぶん、見なかった。
俺は、外れたボタンを留めて、袖口を、もう一度引き下ろした。
◇
大橋の上の市場の人混みが、急に割れた。
四頭立ての、黒い漆塗りの馬車が来た。人々は欄干の脇へ寄って頭を下げ、誰も、馬車を見ようとしなかった。
馬車の扉に、白い、角ばった結晶の紋章が描かれていた。塩の、結晶だった。窪地の農園の、門の上。藍の畑で働かされていたエルフたちの、手首。
隣で、キシェンが左の手首を掻いていた。この都は、蚊が多い。
「ハンティントン卿の、馬車です。海岸の塩田をお持ちの、大貴族です。宮廷でも、とても……」
メルカは、そこで言葉を切った。メルカも、あの農園の門を見ていたのだ。
馬車が行ってしまうと、メルカは屋台で、ねじった揚げ菓子の小さな包みを買って、俺の手に押しつけた。見習いのころ、給金が出るたびに、ここで一本ずつ買っていたのだという。
「一本は、今の分。残りは、晩の分です」
◇
大橋を渡りきった先は、途方もなく広い石の広場だった。奥に、大神殿の白い塔。丸い屋根の下は天文台なのだという。広場の真ん中を、手のひらほどの幅の真鍮の帯が、北の端から南の端まで貫いていた。
「帝国の子午線です。帝国の地図は、すべて、この線から経度を数えます」
メルカは、真鍮の帯の手前で足をそろえて、きちんと跨いだ。それから、声を落とした。
「……経度の話は、院長の前では、なさらないでくださいね」
「院長って、どんな人だ」
メルカは、少し黙った。
「……正しい方です。いつも」
◇
皇宮の門の手前で、伝令の若い男が待っていた。胸もとに、子午線をかたどった金の留め具。
陛下のご用意だという家は、皇宮の外壁から通りを一本隔てた、土手の上の古い石造りだった。中庭に井戸があり、平らな屋根があった。三日休んで、四日目の朝に地理院へ。陛下の言葉は、それだけだった。
「私は、測量局の寮に戻ります。報告書を、出さなければならないので」




