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山猿と笑われた天気読み、皇帝の地理顧問になる 〜記録魔の少女測量官と、地図一枚で戦争を止めるまで〜  作者: 朝霧ナギ


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第21話 幕間 どこまでも

 夜明け前のコル峠は、やっぱり、世界でいちばん欲張りな場所だと思う。


 東を向けば、ヒュライアの森が白い霧の布団の下で、まだ眠っている。西を向けば、エルグの砂漠が、夜の名残の青い影の中に沈んでいる。頭の上では、万年雪が夜明けを待っている。


 俺はいつもの岩の上に座って、空を見上げた。


 東の空の、森の上の低いところが、少しずつ白んでいく。北の釘星が、ゆっくりと薄れていく。風は東から。森の湿り気をかすかに含んだ、春の風だ。山頂に笠雲はない。


 日誌を開いた。


 千五百五十一日目。


 ――東の風、弱し。笠雲なし。森の霧、平年並み。西の鞍部の雪庇、崩落済み。崩れ跡、例年より広し。


 鉛筆を走らせながら、ふと手が止まった。


 この日誌を峠でつけるのは、今日が最後になる。明日からは、どこの空を書くことになるのだろう。帝都の空。三角州の、海の近くの空。俺の知らない空だ。


 まあ、空はどこへ行っても頭の上にある。それは帝都でも変わらないだろう。


 日誌を閉じて、竈に火を入れた。峠で炊く、最後の粥だ。平たい石の上では、平焼きが、ぷくっと膨らみはじめていた。


「アレクさん」


 声に振り返ると、メルカが坂を上ってくるところだった。


 紺の制服。きっちり編み直した三つ編み。細い銀縁の眼鏡。背中には、体ほどもある測量器。足取りだけが、初めて峠に来た日とは違っていた。ふらつきもせず、まっすぐに、峠の坂を上ってくる。


「早いな」

「測量官ですから」


 メルカの目が、鍋の上で止まった。


「……食うか」

「いただきます。出立の朝は、しっかり食べるのが原則です」

「初めて聞く原則だな」

「今、決めました」


 椀を受け取ると、メルカは二度ふうふうと吹いて、ひと口すすった。眼鏡が湯気で白く曇った。


 食べ終えると、俺の隣に並んで、空を見上げた。それから、懐の野帳をそっと押さえた。何かを確かめるように。


「今日の空は、どうですか」

「晴れる。少なくとも、峠を下りるまではな」

「数字の上でも、晴れです」


 メルカは真鍮の気圧計を取り出して、俺に見せた。針は、ほとんど動いていなかった。


「……珍しく、意見が合ったな」


 メルカは野帳を開きかけて、そのまま閉じた。その横顔は、何かを胸の奥にしまい込んでいる顔だった。それが何なのか、俺にはわからなかった。



   ◇



「おーい! 置いてく気かよ!」


 下の道から、キシェンの声が上ってきた。三頭の馬の手綱をまとめて引いて、坂を上ってくる。鞍の後ろには、山のような荷物が積まれていた。


「最後の朝くらい、俺の分もあるよな」

「ない」

「じゃあ、顧問様のおごりだ」


 キシェンは勝手に三つ目の椀を出して、勝手に粥をよそった。


 その後ろから、赤銅色の三つ編みが、ずかずかと坂を上ってきた。


「朝っぱらから、なに三人並んで、すすってんだい!」


 リサは、抱えていた大きな布の包みを、キシェンの胸にどさりと放り込んだ。焼きたての平焼きの匂いがした。


「道中の飯だよ。つまみ食いしたら、森の向こうまで聞こえるように怒鳴るからね」


 キシェンは包みを抱えたまま、黙った。本当に届きそうだった。


「それから、これは忘れ物だよ」


 リサは、俺の胸に、もう一つの包みを押しつけた。開けると、小さな陶の壺がいくつも並んでいた。藍。苔の深緑。砂漠の赤褐色。それから、海藻の紫。


「帝都じゃ、壺の一つも持ってないと、かえって目立つよ。……旅の、お守りだ」


 リサは、メルカのほうを向いた。


「あんたにも」


 メルカの手にも、同じ包みが押しつけられた。


「帝都は、湿っぽくて、暑いからね。あんたの砂漠の血彫りじゃ、夏はこたえるよ。藍を、多めに入れといた」

「……ありがとうございます」

「礼はいいから、こいつの面倒を見てやっとくれ。空を見てる時以外は、ぼんやりした男だからね」

「ひどいな」

「事実だろ」

「事実です」


 メルカが、真顔でうなずいた。


「野帳にも、記録があります。『案内人、空を見ていない時は、三度呼んでも返事なし』」

「記録するな、そんなこと」


 キシェンが、腹を抱えて笑った。メルカも、口元を押さえて、小さく笑った。


 俺も、笑った。


 いつ以来だろう。笑ったのは。



   ◇



 岩の上に、平焼きを一枚置いた。


 峠の神様の分だ。この岩に置くのも、今朝で最後になる。


「さて、行くか」


 俺は荷物を背負った。


 その時、霧が動いた。


 峠の東の、森から這い上がってきた朝霧が、岩場の間に薄く溜まっていた。その白い霧の中から、小さな人影が、すうっと現れた。


 少女だった。


 小柄で、メルカよりもう少し低い。短く切りそろえた黒髪。霧に溶けるような、灰色の衣。首には、木の玉を連ねた長い数珠を下げていた。表情は、ほとんど動かない。ただ、大きな黒い瞳だけが、岩の上の平焼きを、じっと見つめていた。


 正確に言うと、平焼きしか見ていなかった。


 メルカが息を呑んだ。測量器の脚に、手をかけた。


 キシェンが、その前にひょいと手を出した。


「大丈夫。俺の、妹だ」

「……妹?」


 俺とメルカの声が、そろった。


 似ていない。どこをどう見ても。


 少女は、俺の前まで音もなく歩いてきた。足音が、まるでしなかった。それから、俺の顔を下からじっと見上げた。


 俺は懐から、灰色の木の玉を取り出した。ワジの崖の縁で拾った玉だ。


「……これ、お前のか」


 少女のまばたきが、止まった。


 小さな手が、玉を受け取った。首の数珠の、ほどけていた結び目に、玉を一つ通す。それから指先で、数珠の玉を一つずつ繰りはじめた。唇が、声を出さずに数を数えていた。


 数え終わると、少女は小さくうなずいた。


「百。そろいました」


 初めて聞く声だった。細くて、静かで、少しも揺れない声だった。


「名前は」

「ナイナ」

「どこから来た」

「名のない里」


 それだけだった。


 少女は、岩の上の平焼きに、ちらりと目をやった。


 ちらり、と言うには、ずいぶん長いちらりだった。


 それから、俺の顔に目を戻した。


「峠の神様の分。いつも、おいしかったです」

「……は?」


 キシェンが、盛大に吹き出した。リサが額を押さえて、天を仰いだ。


 メルカは、少女と岩とを見比べて、眼鏡を押し上げた。


「……峠の神様は、実在したのですね」

「そこじゃない」

「記録します」

「しなくていい」


 毎朝、いつの間にか消えていた平焼き。霧の残る岩陰で、動いた気がした灰色の何か。森の枝の上の揚げ団子。砂漠の焚き火のそばのナツメヤシ。


 ずいぶん食いしん坊な神様だと思っていた。神様じゃなかった。


 七人の男が、一人ずつ倒れていった昼。窪地の農園で、俺たちは四人だ、と言ったキシェン。


 四年間、ずっと。いや、もしかしたら、もっと前から。


 霧の中で喉を開かれた弩の男の、開いたままの目が浮かんだ。


 あれをやった手が、さっき、俺の拾った木の玉を数珠に通した。百、と数えた唇は、あの白の中でも、何かを数えていたのだろうか。


 首筋の産毛が、峠の風のせいではなく、逆立った。


 少女は、俺のそんな顔を、表情ひとつ変えずに見上げていた。


 それから、両手を体の前でそろえて、深く頭を下げた。


「アレク様。どこまでも、お供します」

「な? よく食う妹だろ」


 ナイナは、兄のほうを見もせずに、その足を踏んだ。


「いってえ!」


 リサの笑い声が、峠じゅうに響いた。



   ◇



 峠の坂を、東へ下りはじめた。


 帝都は、森の向こう、カシキアレ大河が海に注ぐ三角州の上にある。森の縁の川港まで馬で行き、そこからは舟で三角州まで川を下る。ひと月近い旅になる。


 先頭は、馬の背の俺。その隣に、メルカ。後ろに、荷を積んだ馬のキシェン。そして気がつくと、ナイナの姿は、もうどこにも見えなかった。霧の中のどこかにいる。なぜか、それがわかった。


 坂の途中で、俺は振り返った。


 峠の頂の岩の上で、リサが、小さな手を大きく振っていた。その足もとの平たい岩の上には、もう、平焼きはなかった。


 最後の一枚まで、律儀な神様だ。


 空を見上げた。


 東の空が、森の上で金色に燃えはじめていた。風は東から。峠を越えて、砂漠のほうへ吹き抜けていく、いつもの風だ。


 この風の吹いていく先にも、来た先にも、まだ俺の知らない空がある。知らない山があって、知らない川があって、知らない人たちが暮らしている。地図の上では白く塗られたままの、帝国の果ての、さらにその向こうにも。


 全部、読んでみたいと思った。


 全部、測ってみたいと思った。


 そして、できることなら、母さんの最後の頁のような地図を、描きたいと思った。


「メルカ」

「はい」

「今日の空は、晴れだ」


 俺は、日誌の最後の行に、書き足した。


 ――千五百五十一日目の空は、晴れ。どこまでも。


 鉛筆をしまう前に、もう一度、東を見た。


 燃えはじめた空の、いちばん下。森の果ての、空と地面の境目だけが、晴れているのに、白く濁っていた。雲の形をしていない。霧にしては、高すぎる。


 千五百五十一日分の日誌のどこにも、あの色の空は書いていない。

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